「郭柏蔭」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 邳郗郯郴などの改名に伴うリンク修正依頼 (劉郇膏) - log |
m Bot作業依頼: 荃莒莘菏芷芿を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (曽国荃) - log |
||
16行目: | 16行目: | ||
{{先代次代|[[江蘇省|江蘇]][[巡撫]]|1866-1867|[[劉郇膏]]|[[丁日昌]]}} |
{{先代次代|[[江蘇省|江蘇]][[巡撫]]|1866-1867|[[劉郇膏]]|[[丁日昌]]}} |
||
{{先代次代|[[広西チワン族自治区|広西]][[巡撫]]|1867|[[張凱嵩]]|[[蘇鳳文]]}} |
{{先代次代|[[広西チワン族自治区|広西]][[巡撫]]|1867|[[張凱嵩]]|[[蘇鳳文]]}} |
||
{{先代次代|[[湖北省|湖北]][[巡撫]]|1867-1872|[[ |
{{先代次代|[[湖北省|湖北]][[巡撫]]|1867-1872|[[曽国荃]]|[[呉元炳]]}} |
||
{{Chinese-history-stub}} |
{{Chinese-history-stub}} |
2020年8月26日 (水) 05:16時点における版
郭 柏蔭(かく はくいん、Guo Baiyin、1807年 - 1884年)は、清の官僚。字は遠堂。福建省侯官県出身。
1832年、進士となり、庶吉士に選ばれ、編修の職を授かった。その後、御史・給事中・甘粛甘涼道などを歴任した。1853年、福建省に戻って団練を組織し、小刀会から廈門を奪回し、延平の防衛にあたった。その功により郎中に抜擢された。1862年、曽国藩と会って太平天国との戦いに協力することになり、翌年からは江蘇按察使、江蘇布政使、江蘇巡撫として李鴻章率いる淮軍の糧食の補給にあたった。
1867年、広西巡撫に就任したが、湖北巡撫に異動となった。湖広総督代理も兼ね、天地会の蜂起の鎮圧にあたった。1873年、病のため辞職。
著作
- 『天開図画楼文稿』
- 『嘐嘐言』
- 『続嘐嘐言』
- 『変雅断章演義』
出典
- 『清史稿』巻426・列伝213
|
|
|
|
|
|