「王揖唐」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「鏞・埈・雒」等の改名に伴うリンク修正依頼 (朱啓鈐) - log |
|||
60行目: | 60行目: | ||
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
||
{{先代次代|内務総長|<small>[[1916年]]4月 - 6月</small>|[[朱啓鈐]]|[[許世英]]}} |
{{先代次代|内務総長|<small>[[1916年]]4月 - 6月</small>|[[朱啓鈐]]|[[許世英]]}} |
||
{{先代次代|[[安徽省 (中華民国)|安徽]]督弁|<small>[[1924年]]11月 - [[1925年]]4月</small>|[[馬聯甲]](安徽督理)|[[鄭士 |
{{先代次代|[[安徽省 (中華民国)|安徽]]督弁|<small>[[1924年]]11月 - [[1925年]]4月</small>|[[馬聯甲]](安徽督理)|[[鄭士琦]]}} |
||
|- |
|- |
||
! [[File:Flag_of_the_Republic_of_China_(1912-1928).svg|25px]] [[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]] |
! [[File:Flag_of_the_Republic_of_China_(1912-1928).svg|25px]] [[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]] |
2020年8月25日 (火) 22:55時点における版
王揖唐 | |
---|---|
『写真週報』1940年 | |
プロフィール | |
出生: |
1877年10月17日 (清光緒3年9月11日) |
死去: |
1948年(民国37年)9月10日 中華民国北平市 |
出身地: | 清安徽省廬州府合肥県 |
職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 王揖唐 |
簡体字: | 王揖唐 |
拼音: | Wáng Yītáng |
ラテン字: | Wang I-t'ang |
和名表記: | おう ゆうとう |
発音転記: | ワン イータン |
王 揖唐(おう ゆうとう)は、清末民初の政治家・軍人。安徽派の政治家として安福倶楽部を指導する。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。旧名は志洋。字は慎吾、什公。後に、名を賡、字を一堂と改めたが、号の揖唐で知られる。筆名は逸唐。
事績
清末民初の活動
1904年(光緒30年)、甲辰科進士となったが、自ら望んで軍事を学ぶことを清朝に願い出て、同年9月に日本へ留学した。東京振武学校を経て、金沢砲兵第9連隊で実習に臨んだ。しかし軍人生活に適応できず、法政大学での学習に転じた。[1]1907年(光緒33年)に帰国した。以後、兵部主事、東三省総督署軍事参議、吉林陸軍第1協統統領、吉林督練処参議を歴任した。1909年(宣統元年)から、ロシアとアメリカへ外遊し、軍事等の視察を行った。[2][3][4]
中華民国成立後、王揖唐は袁世凱の下で総統府秘書、参議、顧問などをつとめた。また、政党活動にも参加し、民社、共和促進会、統一党の3党を経て、黎元洪が理事長をつとめる共和党で幹事となった。1913年(民国2年)、チベット選出の第1期国会参議院議員となる。5月、共和党、民主党、統一党の3党合併により進歩党が成立すると、王は理事をつとめた。その後も袁を支持する路線をとり続け、約法会議議員として中華民国約法制定に参与する。参政院参政、吉林巡按使、内務総長を歴任した。また、フランスやドイツへ外遊して陸軍の組織の視察も行い、袁が皇帝即位を目論んだ際には『国華報』という新聞を創刊してこれを支援する言論を張った。[5][3][4]
安福倶楽部
1916年(民国5年)6月の袁世凱死後は、王揖唐は安徽派に属する。翌年11月に段祺瑞が臨時参議院を組織すると、王揖唐が議長に就任した。1918年(民国7年)3月8日、王は徐樹錚とともに安福倶楽部を設立し、安徽派のための様々な政治活動に従事した。同年8月2日、王揖唐は衆議院議長に就任して、以後、「安福国会」と称される国会運営を主導した。9月には大総統に徐世昌を選出している。このほか、南方政府との和平交渉では首席代表を務め、私立民国大学や中華大学の校長にもなった。しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で直隷派に安徽派が敗北すると、同年8月3日に安福倶楽部と安福国会は徐の命令により解散させられた。王も指名手配されたため、日本へ亡命して、しばらくは著述活動に専念した。[6][3][4]
1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)を経て段祺瑞が臨時執政として復権する。王揖唐もこれに参加し、11月には安徽省長兼督弁軍務善後事宜に就任した。1925年(民国14年)2月、善後会議議員となる。中国国民党の北伐に際しては、王は北方各派に与してこれに抵抗しようとした。しかし1928年(民国17年)の北伐完了と共に王は指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込み、再び著述活動に励んだ。1931年(民国20年)から国民政府の政治家として復帰し、東北政務委員会委員に任命された。その後、国難会議会会員、華北戦区救済委員会委員、行政院駐平政務整理委員会委員、冀察政務委員会委員、天津匯業銀行総理を歴任した。[7][3][4]
親日政府での活動
1936年(民国25年)5月、王揖唐は親日の蒙古軍政府に参加し、実業署署長に任命された。日中戦争(支那事変、抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)12月14日に、王克敏が北平(北京)で中華民国臨時政府を組織する。王揖唐もこれに参加し、議政委員会常務委員、賑済部総長、内政部総長を歴任した。1939年(民国28年)9月からは、汪兆銘(汪精衛)を支持してその政権への参加交渉に従事した。[8][3][4]
1940年(民国29年)3月の南京国民政府成立と共に、王揖唐は考試院院長兼華北政務委員会委員となる。6月には華北政務委員会委員長に就任した。さらに、中央政治委員会委員、内務総署督弁にも任じられている。1943年(民国32年)1月、最高国防会議議員、全国経済委員会副委員長、新国民促進委員会委員(後に常務委員)となった。[8][3][9]
日本が敗北した後の1945年(民国35年)12月5日に王揖唐は北平の病院で逮捕される。[10]当初、王は重病とみなされて裁判にかけられなかったが、後にその仮病が発覚するなどして翌1946年(民国35年)9月に裁判に付されることになった。[11]河北高等法院で死刑が言い渡された後、南京首都高等法院で当該判決が確定する。1948年(民国37年)9月10日、[12]漢奸の罪により北平の監獄で銃殺刑に処せられた。享年72(満70歳)。[8][3][13]
脚注
- ^ 劉国銘主編(2005)、230頁は、陸軍士官学校で学んだ、としているが、誤りと思われる。
- ^ 蕭(2005)、727頁。
- ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、153頁。
- ^ a b c d e 劉国銘主編(2005)、230頁。
- ^ 蕭(2005)、727-728頁。
- ^ 蕭(2005)、728-729頁。
- ^ 蕭(2005)、729-730頁。
- ^ a b c 蕭(2005)、730頁。
- ^ 劉国銘主編(2005)、230-231頁。
- ^ 余ほか(2006)、1482頁、1614頁による。蕭(2005)、730頁は、1946年夏に逮捕としている。
- ^ 上海『新聞報』1946年9月8日(余ほか(2006)、1482頁)。
- ^ 徐主編(2007)、153頁は「1946年夏処刑」としているが、誤りである。
- ^ 劉国銘主編(2005)、231頁。
著作
- 『広徳寿重光集』上海愛儷園行館、1920年
- 『世界最新之憲法』1923年
- 『逸塘詩存』1941年
- 『今傳是樓詩話』
- 『近邊建制概略』
- 『上海租界問題』
参考文献
- 蕭棟梁「王揖唐」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
| |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
中華民国臨時政府
| |||||||||
南京国民政府(汪兆銘政権)
|