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[[中華民国]]成立後、章宗祥は、総統府秘書兼法制局局長に任じられた。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)7月、[[陸徴祥]]内閣で司法総長として名簿に登載されたが、結局承認を得られず、[[大理院]]院長に転じている。[[1914年]](民国3年)2月、[[孫宝キ|孫宝琦]]臨時内閣において、司法総長に正式に任命された。
[[中華民国]]成立後、章宗祥は、総統府秘書兼法制局局長に任じられた。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)7月、[[陸徴祥]]内閣で司法総長として名簿に登載されたが、結局承認を得られず、[[大理院]]院長に転じている。[[1914年]](民国3年)2月、[[孫宝琦]]臨時内閣において、司法総長に正式に任命された。


=== 五四運動での失脚、その後 ===
=== 五四運動での失脚、その後 ===

2020年8月25日 (火) 22:51時点における版

章宗祥
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 1962年10月1日
中華人民共和国上海市
出身地: 清の旗 浙江省湖州府(現在の湖州市呉興区
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 章宗祥
簡体字 章宗祥
拼音 Zhāng Zōngxiáng
ラテン字 Chang Tsung-hsiang
和名表記: しょう そうしょう
発音転記: ジャン ゾンシアン
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章 宗祥(しょう そうしょう)は、清末民初の政治家・外交官。仲和

事績

司法総長就任まで

抜貢の家庭に生まれる。1899年光緒25年)、日本に留学し、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科に入学した。同時期に留学していた曹汝霖と親交を結んでいる。その後、明治大学でも法学士を修得した。

1903年(光緒29年)に帰国し、北京進士館教習、法律館纂修官となる。1905年(光緒31年)、董康と共に日本の刑法を訳出した。さらに、商部尚書載振による商法編纂を補佐し、憲政編査館編制局副局長に昇進している。1907年(光緒33年)、東三省総督徐世昌が就任すると、これに随従した。

1909年宣統元年)、北京内城巡警庁丞となり、その後、法律編纂局編修、内閣法制院副使を歴任した。1911年(宣統3年)10月の辛亥革命勃発後には、唐紹儀に随従して、南北和平交渉に参加している。

中華民国成立後、章宗祥は、総統府秘書兼法制局局長に任じられた。1912年民国元年)7月、陸徴祥内閣で司法総長として名簿に登載されたが、結局承認を得られず、大理院院長に転じている。1914年(民国3年)2月、孫宝琦臨時内閣において、司法総長に正式に任命された。

五四運動での失脚、その後

翌年、袁世凱が皇帝に即位しようとすると、章は司法総長として、籌安会(袁の皇帝即位支援団体)の違法性を否定した。袁世凱死後の1916年(民国5年)6月末まで、章宗祥は司法総長の地位にあった。その後、駐日特命全権公使に任命され、日本に赴任する。日本では、西原借款締結のため西原亀三としばしば交渉し、日本政府との間で軍事協定の締結も行った(日支共同防敵軍事協定)。さらに山東半島における日本側の権益を承認している。また、陸宗輿とともに、段祺瑞に対して対独宣戦を進言した。

1919年(民国8年)のヴェルサイユ会議で山東問題等が論点となる。このとき、それまで日本に対する譲歩的な態度をとっていた章宗祥は、曹汝霖・陸宗輿とともに「売国奴」として世論から糾弾されることになってしまった。同年の五四運動において、曹の邸宅はデモ隊により焼き払われてしまう。さらに、たまたま帰国して曹の邸宅を訪問していた章は、デモ隊から暴行を受けて負傷している。結局、翌月10日に、章ら3人は役職から罷免されてしまった。

以後、章宗祥は政界から引退する。実業界に転じ、中華匯業銀行(中日合弁の銀行)総理、北京通商銀行総理をつとめた。北京政府崩壊後は、長期にわたり青島に寓居した。1942年(民国31年)3月、王揖唐の招請に応じて、華北政務委員会諮詢委員をつとめる。また、電力会社の董事長(理事長)にもなった。日中戦争終結後、国民政府により逮捕されたが、まもなく裁判を受けることなく釈放され、上海に寓居した。中華人民共和国成立後も、そのまま上海に留まっている。

1962年10月1日、上海にて病没。享年84。

参考文献

  • 鄭則民「章宗祥」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第3巻』中華書局、1981年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
許世英
大理院長
1912年7月 - 1914年2月
次代
董康
先代
梁啓超
司法総長
1914年2月 - 1916年6月
次代
張耀曽
先代
金邦平
農商総長(署理)
1916年6月
次代
張国淦