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[[満州民族|満州]]鑲黄[[旗人]]。ナラタ氏(narata hala、那拉塔氏)。[[黒竜江省|黒龍江]][[チチハル市|チチハル]]出身。[[直隷省]]、[[山東省]]、[[山西省]]、[[河南省]]、[[安徽省]]を転戦して、[[捻軍]]や[[太平天国]]軍と戦い、[[バトゥル]]の称号を得た。[[1862年]]、[[ドロンガ]]に従い[[陝西省]]に入り、太平天国の[[陳得才]]軍を破った。[[1864年]]に[[ドロンガ]]が戦死すると、[[欽差大臣]]代理、さらに荊州将軍に任じられ、[[劉蓉]]とともに陝西省の軍務にあたった。太平天国軍・捻軍・[[回民蜂起]]軍と戦い、[[1866年]]には[[陝甘総督]]代理となった。 |
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[[1875年]]、正白旗漢軍都統代理となり[[吉林省|吉林]]で[[馬賊]]の討伐にあたった。その後、青州副都統やチャハル都統を歴任した。[[1879年]]に福州将軍となり、[[清仏戦争]]では[[左宗棠]]の軍務を補佐し、長門([[連江県 (中華人民共和国)|連江県]][[ |
[[1875年]]、正白旗漢軍都統代理となり[[吉林省|吉林]]で[[馬賊]]の討伐にあたった。その後、青州副都統やチャハル都統を歴任した。[[1879年]]に福州将軍となり、[[清仏戦争]]では[[左宗棠]]の軍務を補佐し、長門([[連江県 (中華人民共和国)|連江県]][[琯頭鎮]])でフランス軍を破った。[[1885年]]、欽差大臣に任命され、[[東三省]]で軍務にあたった。死後、果勇の[[諡号]]が贈られた。 |
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==出典== |
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2020年8月25日 (火) 10:58時点における版
ムトゥシャン(満洲語: ᠮᡠᡨᡠᡧᠠᠨ 転写:mutušan、穆圖善、1823年? - 1886年)は清朝の軍人。字は春巌。
満州鑲黄旗人。ナラタ氏(narata hala、那拉塔氏)。黒龍江チチハル出身。直隷省、山東省、山西省、河南省、安徽省を転戦して、捻軍や太平天国軍と戦い、バトゥルの称号を得た。1862年、ドロンガに従い陝西省に入り、太平天国の陳得才軍を破った。1864年にドロンガが戦死すると、欽差大臣代理、さらに荊州将軍に任じられ、劉蓉とともに陝西省の軍務にあたった。太平天国軍・捻軍・回民蜂起軍と戦い、1866年には陝甘総督代理となった。
1875年、正白旗漢軍都統代理となり吉林で馬賊の討伐にあたった。その後、青州副都統やチャハル都統を歴任した。1879年に福州将軍となり、清仏戦争では左宗棠の軍務を補佐し、長門(連江県琯頭鎮)でフランス軍を破った。1885年、欽差大臣に任命され、東三省で軍務にあたった。死後、果勇の諡号が贈られた。
出典
- 『清史稿』巻454・列伝241
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