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王淩は統治能力に優れていたため、[[兗州]]・[[青州 (山東省)|青州]]・[[豫州]]・[[揚州 (古代)|揚州]]の[[刺史]]になった。また人民は王淩の統治を称賛している。特に、[[王基]]と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民から非常に称えられた。[[満寵]]とは意見が対立したため、その失脚を狙ったが失敗したという。呉の武将の孫布が魏への降伏を申し出た際には、満寵が偽装降伏であると見抜いたが、王淩はそれに従わず孫布を迎えに行くために出兵し、大敗した。 |
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[[249年]]、甥の[[令狐愚]]と共に[[曹芳]](斉王)の廃位を企み、[[曹彪]]の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、[[司馬懿]]のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。これを長子の王広が激しく諫めたが、王淩は取り合わなかった。また、甥の死後もその計画を推し進めた。 |
2020年8月25日 (火) 10:54時点における版
王 淩(おう りょう、172年 - 251年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。魏に仕えた。字は彦雲。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。父は王宏[1]。叔父は王允。兄は王晨。子は王広・王飛梟・王金虎・王明山[2]。
略歴
同僚の蒋済は王淩のことを、文武を兼ね備えた人物だと評した。
192年、叔父が李傕らによって殺害されると、兄と共に城壁を乗り越えて、郷里に逃げ戻った。後に孝廉へ推挙され、発干県長・中山太守を歴任した。やがて曹操に認められ、中央に出仕した。
222年、呉の呂範との戦いの功績で、建武将軍となり宜城亭侯に封じられた。
228年、石亭の戦いでは負け戦となったが、王淩が奮戦して敵の包囲を破ったので、曹休を逃がすことができた。
王淩は統治能力に優れていたため、兗州・青州・豫州・揚州の刺史になった。また人民は王淩の統治を称賛している。特に、王基と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民から非常に称えられた。満寵とは意見が対立したため、その失脚を狙ったが失敗したという。呉の武将の孫布が魏への降伏を申し出た際には、満寵が偽装降伏であると見抜いたが、王淩はそれに従わず孫布を迎えに行くために出兵し、大敗した。
241年、王淩は呉の全琮を撃退し、秦晃を戦死させた(芍陂の役)。この功績により南郷侯に爵位が進み、車騎将軍となった。その後、三公の司空・太尉を歴任した。
249年、甥の令狐愚と共に曹芳(斉王)の廃位を企み、曹彪の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、司馬懿のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。これを長子の王広が激しく諫めたが、王淩は取り合わなかった。また、甥の死後もその計画を推し進めた。
しかし251年、司馬懿に計画を察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟ったため、護送の途中で賈逵を祀った廟の前を通りかかった時に「梁道(賈逵の字)殿、この王淩は元より魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知の筈です」と叫んだという。まもなく、都への到着を前に項という地域を通りかかった時、服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らも含めて、王淩の三族は皆処刑された(王淩の乱)。
王淩の妹は郭淮の妻である。彼女もまた兄の王淩に連座して誅殺されかけたが、彼女の子である郭統ら五人の息子は涙を流しながら、地面に額を叩きつけ血を流し生母の助命を哀願していたという。事の重大さを覚った郭淮が、司馬懿に対し「五人の息子は母を憐んでおり、もし母に死を賜れば彼らはその後を追うことでしょう。また五人の息子を亡くせば、私もすぐに妻の後を追うことになるでしょう」と言上したため、彼女は助命されたという[3]。
南北朝時代、王淩の従兄弟の6世の子孫にあたる宋の王玄謨は、幼少の頃から優秀さを褒められ王淩のようだ(太尉の彦雲の風あり)、といわれたという[4]。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。