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官に仕え印官の職にあったことで印官范道生と呼ばれた。[[万治]]3年(1660年)に、[[蘊謙戒琬]]の招きに応じて[[長崎]]に渡来し[[福済寺]]に寓居して仏像を彫った。寛文3年(1663年)、[[隠元隆琦]]に請われ[[萬福寺]]に上り、弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作する。また隠元の彫像をチーク材で製作している。仏像彫刻のかたわらで道釈人物図などを好んで画いた。寛文5年(1665年)、父賛公<ref>父の范爵も仏師で画をよくした。</ref>の70歳を祝うため[[長崎]]にから便船に乗って[[広南県|広南]]に帰省。 |
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寛文10年(1670年)に再来日したが、[[長崎奉行所]]は入国を許可せず、[[木庵性瑫|木庵]]が図南や瑞峰を使いに出して調停したが不調に終わる。同年11月2日、船中で吐血し病没する。[[享年]]36。[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]に葬られた。 |
2020年8月25日 (火) 10:53時点における版
范 道生(はん どうせい、崇禎10年12月23日(1637年) ‐ 寛文10年11月2日(1670年))は、中国清代の仏師。日本に渡来し、萬福寺などで仏像彫刻する傍らで画もよくした。
字を石甫、通称印官。清源山人と号した。福建省泉州府安平県の人。
略伝
官に仕え印官の職にあったことで印官范道生と呼ばれた。万治3年(1660年)に、蘊謙戒琬の招きに応じて長崎に渡来し福済寺に寓居して仏像を彫った。寛文3年(1663年)、隠元隆琦に請われ萬福寺に上り、弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作する。また隠元の彫像をチーク材で製作している。仏像彫刻のかたわらで道釈人物図などを好んで画いた。寛文5年(1665年)、父賛公[1]の70歳を祝うため長崎にから便船に乗って広南に帰省。
寛文10年(1670年)に再来日したが、長崎奉行所は入国を許可せず、木庵が図南や瑞峰を使いに出して調停したが不調に終わる。同年11月2日、船中で吐血し病没する。享年36。崇福寺に葬られた。
作品
- 仏像
- 絵画
註
- ^ 父の范爵も仏師で画をよくした。
出典
- 成澤勝嗣「物はやりの系譜」(「隠元禅師と黄檗宗の絵画展」所載 1991年 神戸市立博物館)
- 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版 ISBN 4784205381