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'''張 燕卿'''(ちょう えんけい)は[[中華民国]]、[[満州国]]の政治家。[[字]]は'''耐甫'''。父は、[[清]]末の政治家・[[張之洞]]。弟は[[張仁蠡]]。甥は[[張厚]](ただし燕卿の方が年下である)。


== 事績 ==
== 事績 ==

2020年8月25日 (火) 10:52時点における版

張燕卿
『満洲國承認記念写真帖』(1932年)
プロフィール
出生: 1898年光緒24年)
死去: 1951年
日本
出身地: 清の旗 直隷省天津府南皮県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張燕卿
簡体字 张燕卿
拼音 Zhāng Yànqīng
ラテン字 Chang Yen-ch'ing
和名表記: ちょう えんけい
発音転記: ジャン イエンチン
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張 燕卿(ちょう えんけい)は中華民国満州国の政治家。耐甫。父は、末の政治家・張之洞。弟は張仁蠡。甥は張厚琬(ただし燕卿の方が年下である)。

事績

青島特別高等学校を卒業後に日本に留学する。学習院文科を1920年民国9年)に卒業した。

1922年(民国11年)、奉天省復県(現在の瓦房店市)の知事となる。1924年(民国13年)、直隷省正定県知事となる。その翌年に、天津県知事に異動し、さらに直隷全省官産処座弁などの役職を兼任した。1926年(民国15年)、天津市特別区市政管理局局長、直隷省石門警察庁庁長をつとめた。翌年、交通部参事、東北辺防軍駐吉林副司令官公署秘書となる。

1931年(民国20年)、長春市政籌備処処長、吉林省実業庁庁長などを歴任した。その後まもなく、張燕卿は満州国建国活動に参加する。1932年(民国21年)2月の建国最高会議では、張は熙洽の代理として出席した。このとき、張は帝制採用を強く主張して、立憲共和制の採用を唱える臧式毅らと対立している[1]

1932年大同元年)3月9日、満州国が正式に成立し、翌10日、張燕卿は執政府内務官兼実業部総長(後に同部大臣)に任命された[2]。7月、協和会理事長となる。1935年(康徳2年)5月21日、外交部大臣に就任した[3]1937年(康徳4年)5月7日、大臣を辞任し[4]、12月に中華民国新民会副会長兼指導部長となった。

満州国崩壊後、張燕卿は日本に亡命し、頭山満の腹心南部圭助に庇護されたという[5]1951年[6]、そのまま日本で客死[5]。享年54。

盛装に勲一位景雲章を着用した張燕卿

  1. ^ 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』、151頁。
  2. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  3. ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
  4. ^ 「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。
  5. ^ a b 横山銕三『「繆斌工作」成ラズ』180頁。
  6. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1885頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 横山銕三『「繆斌工作」成ラズ』展転社、1992年。ISBN 978-4886560759 
  満州国
先代
(創設)
実業総長(大臣)
1932年3月 - 1935年5月
次代
丁鑑修
先代
謝介石
外交大臣
1935年5月 - 1937年5月
次代
張景恵