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[[ファイル:Japanese Legation, Peking LCCN2014699276.tif|サムネイル|在北京日本公使館]]
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2020年8月25日 (火) 05:07時点における版

丁士源
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 1945年康徳12年)
満州国?
出身地: 清の旗 浙江省湖州府(現在の呉興区
職業: 政治家・軍人・外交官
各種表記
繁体字 丁士源
簡体字 丁士源
拼音 Dīng Shìyuán
ラテン字 Ting Shi-yüan
和名表記: てい しげん
発音転記: ディン シーユエン
英語名 S. Y. W. Ting
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丁 士源(てい しげん、中国語: 丁士源; 拼音: Dīng Shìyuán; ウェード式: Ting Shi-yüan)は、中華民国満州国の政治家・軍人・外交官。安徽派に属した。間槎、号は藹翁。最終階級は清軍正参領(大佐に相当)、北洋陸軍中将。

事績

1895年(光緒21年)、天津北洋水師学堂中国語版を卒業し、翌年に毅軍歩兵少尉および武衛左軍副軍校(中尉に相当)に任官、まもなく協参領(少佐に相当)に昇進した。その後、上海聖ヨハネ大学に進学、1902年(光緒28年)に卒業するとイギリスに留学し法律を学んでいる[1]1904年(光緒30年)に帰国すると北京崇文門関税総稽査、修訂法律館内修官、練兵処軍政司法律科監督を歴任、1906年(光緒32年)には陸軍正参領(大佐に相当)となった。1907年(光緒33年)、留学生に随行してフランスに赴き、帰国後の1911年宣統3年)に陸軍部軍法司司長、高等巡警学堂総弁、修訂法律委員会委員などの職を歴任した。武昌起義が起こると、陸軍大臣行営処副官長兼総執法官に任命され鎮圧に向かう[2]。丁の立場は、鎮圧軍司令官の廕昌、参謀長の易乃謙中国語版に次ぐ地位であった。

中華民国成立後、鎮圧軍側であった丁は、しばらくの間天津に寓居する。翌1913年民国2年)、北京政府へと参加、陸軍少将参議に就任し、さらに陸軍協都統なども務める。翌1914年(民国3年)1月、江漢関監督[3]、4月に漢口工巡事宜兼、6月には外交部特派湖北交渉員に任命され、1916年(民国5年)、中将心得[4]

1917年7月、京綏鉄路管理局局長、9月には交通部交通研究會會員に起用される[5]1918年(民国7年)3月、王揖唐徐樹錚らが安徽派の支援政党である安福俱楽部中国語版を設立すると、評議会会員(評議会主任・田応璜)となる。12月、京漢鉄路管理局局長も兼任した。翌1919年(民国8年)4月2日、国務院交通部航空事宜籌備処処長(11月11日より国務院航空事務処と改称[6])、竜煙鉄鉱公司会弁、大総統府侍従武官を務め、10月10日に中将となったが[7]、翌年罷免された[2]。更に、京綏鉄路局での資金1000万銀元の着服が発覚。段祺瑞安直戦争で大敗を喫し失脚すると、北京の日本公使館に逃げ込む。

在北京日本公使館

1922年11月、指名手配解除となったが、天津に留まり、1923年(民国12年)に日系メディア・日報報館の編集者、翌1924年(民国13年)には同じく日系メディア『日日新聞』[8]編集長となる。11月、財政整理会副会長兼国内公債局総理[9]、中法商工銀行中国側理事に任命された。また中法実業管理公司の次席董事をつとめ、翌年9月、中法実業管理公司華總理兼董事会副会長代理となる[10]。後に航空籌備処処長、安国軍中国語版空軍司令を歴任している。国民政府時代の1929年(民国18年)には中華匯業銀行経理に就任した[2]

その後、丁士源は満州国に転じている。1933年大同2年)4月に駐日満州国代表公署が駐日満州国公使館に改組されると、駐日代表の鮑観澄に替わり丁が公使に任命された[11]1935年康徳2年)5月、公使館が大使館に改組されるに伴い公使を辞任(後任は初代大使の謝介石[12]、同年7月、満州中央銀行監事に就任している。1945年(康徳12年)、死去[2]。享年67。

著作

  • 『陸軍規則註解』
  • 『世界海軍現状』

  1. ^ 徐主編(2007)、4頁によると「新林肯大学」で学んだとしている。リンカーン大学のことか。
  2. ^ a b c d 徐主編(2007)、4頁。
  3. ^ 政府令 三年一月九日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  4. ^ 政府令 五年六月一日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  5. ^ 政府令 六年九月八日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  6. ^ (九)航空署(航空事務処)” (中国語). 中国第二歴史档案館. 2018年1月16日閲覧。
  7. ^ 政府令 八年十月十日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  8. ^ 1918年創刊の京津日日新聞
  9. ^ 政府令 十三年十一月三日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  10. ^ 政府令 十四年九月三十日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年8月31日閲覧。
  11. ^ 「駐日公使愈よ 丁士源氏 アグレマン要求」『読売新聞』昭和8年(1933年)4月16日
  12. ^ 「初代駐日大使とし 謝氏赴任に決定す けふアグレマン要請」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月26日夕刊。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1