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[[公孫瓚]]の配下。[[初平]]2年([[191年]])以降、公孫瓚は従弟の勃海(渤海)太守[[公孫範]]の活躍もあって、[[袁紹]]をも凌ぐ程に河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は[[田楷]]を[[青州]][[刺史]]に、[[単経]]を[[兗州]]刺史に任命したが、同時に厳綱も[[冀州]]刺史に任命されている。


初平3年([[192年]])、厳綱は公孫瓚に従い、袁紹軍との界橋の戦いに加わったが、袁紹軍の勇将[[麹義|麴義]]の前に敗れて戦死した(生け捕られた後、処刑されたとも言われる)。
初平3年([[192年]])、厳綱は公孫瓚に従い、袁紹軍との界橋の戦いに加わったが、袁紹軍の勇将[[麹義|麴義]]の前に敗れて戦死した(生け捕られた後、処刑されたとも言われる)。

2020年8月25日 (火) 01:00時点における版

厳 綱(げん こう、? - 192年)は、中国後漢時代末期の武将。『九州春秋』など一部文献では、「劉綱」とされているという(盧弼『三国志集解』注)。

正史の事跡

姓名 厳綱
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 192年初平3年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 冀州刺史
爵位・号等 -
陣営・所属等 公孫瓚
家族・一族 〔不詳〕

公孫瓚の配下。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の勃海(渤海)太守公孫範の活躍もあって、袁紹をも凌ぐ程に河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は田楷青州刺史に、単経兗州刺史に任命したが、同時に厳綱も冀州刺史に任命されている。

初平3年(192年)、厳綱は公孫瓚に従い、袁紹軍との界橋の戦いに加わったが、袁紹軍の勇将麴義の前に敗れて戦死した(生け捕られた後、処刑されたとも言われる)。

物語中の厳綱

小説『三国志演義』も史実同様の描写であり、界橋の戦いで麴義に討ち取られる。

参考文献

  • 三国志』魏書6袁紹伝
  • 同魏書8公孫瓚伝
  • 後漢書』列伝64上袁紹伝上
  • 盧弼『三国志集解』(古籍出版社、1957年)
  • 三国演義