「霊帝 (漢)」の版間の差分
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学問を重んじ、熹平4年([[175年]])、[[儒学]]の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、[[熹平石経]]を作成した。[[177年]]、書画に優れた者を集め、[[鴻都門学]]といった学問を興した。熹平石経の作成に尽力した[[蔡邕]]は鴻都門学には批判的でこれに諫言したが、霊帝は聞き入れなかった。 |
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社会が不安定な光和7年([[184年]])、大賢良師・[[張角]]を首領とする[[黄巾の乱]]が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、[[何進]]や[[皇甫嵩]]、[[朱儁]]、[[盧植]]、[[董卓]]ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。[[張燕]]や[[張純 (後漢末)|張純]]、[[韓遂]]といった人物が各地で反乱を起こし、[[ |
社会が不安定な光和7年([[184年]])、大賢良師・[[張角]]を首領とする[[黄巾の乱]]が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、[[何進]]や[[皇甫嵩]]、[[朱儁]]、[[盧植]]、[[董卓]]ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。[[張燕]]や[[張純 (後漢末)|張純]]、[[韓遂]]といった人物が各地で反乱を起こし、[[公孫瓚]]や[[孫堅]]といった群雄たちがそれらの鎮圧に功績を挙げた。 |
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これ以後も、[[売官]]を行うなど「銅臭」と呼ばれる、[[賄賂]]がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく(ただし、売官については軍事政策との関係を指摘する説もある。後述)。売官によって官職を得た人物として[[崔烈]]や[[樊陵]]、[[曹嵩]]がいる。これ以前、霊帝は皇后の宋氏を廃し、[[霊思何皇后|何氏]]を皇后に立て、その兄の[[何進]]を大将軍としたが、何進は宦官に不満を持つ[[袁紹]]に支持され、十常侍との対立を深めていく。何皇后も霊帝の実母である董太后と対立した。 |
これ以後も、[[売官]]を行うなど「銅臭」と呼ばれる、[[賄賂]]がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく(ただし、売官については軍事政策との関係を指摘する説もある。後述)。売官によって官職を得た人物として[[崔烈]]や[[樊陵]]、[[曹嵩]]がいる。これ以前、霊帝は皇后の宋氏を廃し、[[霊思何皇后|何氏]]を皇后に立て、その兄の[[何進]]を大将軍としたが、何進は宦官に不満を持つ[[袁紹]]に支持され、十常侍との対立を深めていく。何皇后も霊帝の実母である董太后と対立した。 |
2020年8月25日 (火) 00:58時点における版
霊帝 劉宏 | |
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後漢 | |
第12代皇帝 | |
王朝 | 後漢 |
在位期間 | 168年2月17日 - 189年5月13日 |
都城 | 雒陽(洛陽) |
姓・諱 | 劉宏 |
諡号 | 孝霊皇帝 |
生年 | 永寿2年(156年) |
没年 |
中平6年4月11日 (189年5月13日) |
父 | 劉萇 |
母 | 董氏 |
后妃 |
宋皇后 何皇后 |
陵墓 | 文陵 |
年号 |
建寧(168年 - 172年) 熹平(172年 - 178年) 光和(178年 - 184年) 中平(185年 - 189年) |
霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。章帝の玄孫に当たる。河間王劉開の曾孫。解瀆亭侯劉淑(元皇)の孫。解瀆亭侯劉萇(仁皇)の子。
生涯
姓名は劉宏といい、即位する前は地方に暮らす貴族であったが、実際は貴族とは名ばかりの貧困にあえぐ生活を送っていたという。族父にあたる先帝の桓帝(劉志)には男子がなく、同じ河間王家出身であったことから、建寧元年(168年)に桓帝の皇后の竇妙、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された。
後漢朝では桓帝の時代から宦官が強い権力を持っていたが、霊帝即位の翌年には竇武と陳蕃らによる宦官排斥が計画される。しかし、これは事前に露見して宦官らの逆襲を受け、桓帝時代の外戚やそれに味方した陳蕃、李膺などの士大夫は排除され、曹節や侯覧、王甫といった宦官が権力を掌握した。その後も清流派を自称する士人たちは宦官とそれに連なる人々を濁流と呼び抵抗したが、党錮の禁により弾圧された。
熹平元年(172年)、侯覧が罪を得て自害に追い込まれた後も、王甫は勃海王の劉悝を自殺に追い込むなど権勢を振るったが、光和2年(179年)には陽球に弾劾されて死罪となった。残った宦官の大物である曹節は反撃に転じ、陽球や陳球などを讒言により葬り、光和4年(181年)まで天寿をまっとうした。
この間、羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発となり、天候の不順が重なり地方での反乱もたびたび勃発した。張奐や段熲、皇甫規といった将軍達はそれらの鎮圧に奔走したが、そうした中でも霊帝本人は宮殿内で商人のまねをしたり、酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権はやがて張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった。
学問を重んじ、熹平4年(175年)、儒学の経典を正す目的で、群臣達の勧めにより、熹平石経を作成した。177年、書画に優れた者を集め、鴻都門学といった学問を興した。熹平石経の作成に尽力した蔡邕は鴻都門学には批判的でこれに諫言したが、霊帝は聞き入れなかった。
社会が不安定な光和7年(184年)、大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、何進や皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。張燕や張純、韓遂といった人物が各地で反乱を起こし、公孫瓚や孫堅といった群雄たちがそれらの鎮圧に功績を挙げた。
これ以後も、売官を行うなど「銅臭」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく(ただし、売官については軍事政策との関係を指摘する説もある。後述)。売官によって官職を得た人物として崔烈や樊陵、曹嵩がいる。これ以前、霊帝は皇后の宋氏を廃し、何氏を皇后に立て、その兄の何進を大将軍としたが、何進は宦官に不満を持つ袁紹に支持され、十常侍との対立を深めていく。何皇后も霊帝の実母である董太后と対立した。
中平5年(188年)、霊帝は西園八校尉という制度を新設し、信任する宦官の蹇碩により何進や袁紹、曹操を統率させた。また、劉焉の勧めにより州牧制を復活させたという。
中平6年(189年)、国内がさらに乱れる中で崩御した。後継者を明確に定めていなかったため、崩御後に実子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが起こることとなった。
霊帝の時代は宦官を重用し、民衆に重い賦役を課して民心は完全に離反した。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化し、三国時代への前段階の時代となっている。
評価
宦官と外戚の権力闘争で疲弊した後漢朝は、霊帝の治世において宦官の優位が決定的となったとされ、後世においても桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされた。ただし、晩年の霊帝に取り立てられた蓋勲のように、奸臣たちに惑わされているだけだと評価した者もいる。
また、石井仁など一部の研究者には、後述のように霊帝時代を再評価しようとする動きもある。
皇帝直属の常備軍創設構想
中平4年(188年)10月に霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われている。当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった。必要に応じ地方から兵を徴集して軍を編成していたのである。しかも地方から徴集される兵の大半は、農民から徴兵した兵士であったため質も低かったと推測される。そのため「戦闘を専門とした質の高い近衛軍」を編成し常駐させるのは、歴代皇帝の悲願でもあった。霊帝自ら無上将軍と名乗り、その下に西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたのはそのためと思われる(指揮官の中には若き日の曹操や袁紹、淳于瓊がいた)。
西園八校尉に関する具体的な軍編成規模は解明されていないが、1万人規模相当であったのではないかと考察されている。この近衛軍の編成に必要な経費負担が後漢の国庫を逼迫させたが、のちに曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹としており、相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていった。霊帝が売官を行ったのは、近衛軍編成のための費用に充足させるためではなかったかとも言われている。実際には創設途上で霊帝が死去したため後漢での完成を見ることなく、曹操の手で実現されることとなる。
また、霊帝の悪政の象徴とされてきた売官・売爵政策についても、単純な私的遊楽のための蓄財ではなく、常備軍構想の財源や光武帝時代に縮小された帝室財政を回復による皇帝権威の回復政策であったとされている。ただし、その方策も目指した路線も後漢王朝体制と対立するものであり、後世まで悪政として残ることになったと考えられている[1]。
宗室
妻妾
子女
脚注
- ^ 柿沼陽平「後漢時代における金銭至上主義の台頭」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年) P88-92.
参考文献
- 石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、1995年)