「朴泰俊 (政治家)」の版間の差分
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1953年11月、陸軍大学に入学し、首席で卒業<ref name="chosun20140804"/>。陸軍士官学校教務処長を経て国防部人事課長を務めていた1957年秋、朴正煕と再会、彼の勧めで[[第25歩兵師団 (韓国陸軍)|第25歩兵師団]](師団長・[[徐鐘喆]]准将)参謀長に就任し、緊密な関係を結ぶようになる<ref name="chosun20140804">{{Cite news |title=朴泰俊、偽唐辛子粉売りの顔に拳銃を突きつける(''박태준, 가짜 고추가루 납품업자 얼굴에 권총을 겨누다'') |
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|newspaper=朝鮮日報 |
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2020年8月24日 (月) 12:00時点における版
朴泰俊 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 박태준 |
漢字: | 朴泰俊 |
発音: | パク・テジュン |
ローマ字: | Park Tae-Joon |
朴 泰俊(パク・テジュン、1927年10月24日 - 2011年12月13日)は、大韓民国の政治家・実業家。浦項総合製鉄(現・ポスコ)の設立者や、第32代国務総理として知られる。号は青岩(チョンアム、청암)。その功績から「韓国のカーネギー」とも呼ばれている。
略歴
慶尚南道東莱郡(現在の機張郡)に生まれる。6歳の時に日本へ渡り、以降日本で育つ事となる。1948年に朝鮮警備士官学校(6期)入学。このとき、第1中隊長だった朴正煕大尉と出会う。朴泰俊生徒は当時難問として知られていた弾道学の問題をすらすら解き、朴大尉に深い印象を残したという[1]。同年卒業後少尉に任官した。
朝鮮戦争時には、忠武武功勲章や花郎武功勲章を授与された。士官学校を卒業した当時の韓国軍将校の多くは、政府の措置によって、4年制大学の学士学位課程を履修していた事もあって、朴自身も1961年には檀国大学校に編入し、1963年8月に法学部政治学科を卒業した。
1953年11月、陸軍大学に入学し、首席で卒業[2]。陸軍士官学校教務処長を経て国防部人事課長を務めていた1957年秋、朴正煕と再会、彼の勧めで第25歩兵師団(師団長・徐鐘喆准将)参謀長に就任し、緊密な関係を結ぶようになる[2]。1961年の5・16軍事クーデターには直接関わることは無かったものの、朴正煕からはクーデターに失敗した場合は、自分の家族を任せると言われ、国家再建最高会議の委員として活動しながら、第一次五ヵ年計画の立案に関与した。
1963年に、少将を最後に予備役に編入した後は、経済界に身を移し、1964年には大韓重石の社長に任ぜられ、1年後に同社を黒字経営に転換した。1968年4月には、浦項総合製鉄の初代社長に就任し、10年後の1978年には、年間550万トンの鉄鋼を生産する世界屈指の企業にまで成長させた。浦項製鉄を経営していた際は、社員の福利厚生の充実にも熱心に取り組み、当時の韓国としては最高水準の住宅団地を造成し、社員の子女達の為の小・中・高等学校も設立した。朴正煕との関係も続き、1970年に政界からの圧力で必要な核心施設の購入許可が下りず、大統領となっていた朴正煕に相談しようか迷っていた朴泰俊に対し、朴正煕が1枚の紙を渡して望むことをすべて書けと命じ、朴泰俊の要望を一目した朴正煕が紙の左側上段に直筆で署名し承認を与えたという逸話も残っている[3]。
教育者としても活動し、1986年にはアメリカのカリフォルニア工科大学をモデルとした浦項工科大学校を創立した。
1980年10月に発足した国家保衛立法会議(第五共和国憲法施行に伴って解散された国会の機能を代行するために設置された)の経済第一委員長に就任した事をきっかけに政界にも進出し、1981年3月の第11代国会議員選挙に民主正義党全国区候補として出馬、当選した。以降は、国会財務委員長を務めたほか、1988年には党代表に就任した。1990年1月30日に、統一民主党・新民主共和党との3党合同によって民主自由党が成立した際は、党最高委員となったが、金泳三と確執を深めた事から、1992年の大統領選挙を控えて、国会議員を辞職した。
1997年7月、浦項市北区の国会議員補欠選挙に出馬、金泳三政権の経済面での失政を攻撃して当選し、政界復帰。同年11月には自由民主連合に入党して、党総裁に就任(11月21日)、金鍾泌らと共に金大中の大統領選挙当選を支援(DJT連合)した。
金大中政権発足後の2000年1月には国務総理に就任したが、不動産の名義貸し疑惑により、わずか4ヶ月で辞任に追い込まれた。
ポスコの名誉会長を晩年まで務めていた。1990年にはレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与された。
2011年12月13日17時20分、胸膜線維腫による後遺症により入院先のソウル特別市内の病院で死去[4]。84歳没。死に際し李明博大統領や全斗煥元大統領など政界、財界から多くの弔問客が訪れ、朴の功績が讃えられた[5]。
エピソード
- 25師団の参謀長時代、越冬の貯蓄用に保存してあるキムジャンのツボの中身が唐辛子粉ではなくおがくずであったことを知ると、ただちに師団長に報告し、ワイロを出して口止めしようとした唐辛子業者に銃を突き付けて本物の唐辛子粉を持ってこさせたという[2]。
- 1977年の浦項第3期設備工事中、工期の遅延で苦戦しているにもかかわらず、発電送風設備で手抜き工事が発見されると工期が8割程度進行した状態であってもこれを爆破解体させたという[1]。
- 当時の社長だった朴は浦項総合製鉄初期の用日を「物を盗むのは泥棒で悪いことだが、心を盗むのは良いことで戦略的なこと」と誇り、 新日本製鉄の稲山嘉寛会長(1987年死去)を「いろいろと助けてくれた。 心が開かれた方だった。」とし、103万トンの1次高炉が成功した後に会いにいった当時、日本の最新流行歌を多く知っていたので稲山会長が自分の車に同乗させると、歌ってみろと言われて歌ってみると、『よくやった』と大喜びされるほど親しかった」とエピソードを明かし、「親しくなってこそ全てを持ってこられる。こうした戦略がなければ技術は導入できない。このように人間の心を盗んでこそ技術まで、願うものを持ってこれる」と語っている[6]。朴曰く稲山会長は全面支援を約束したが、製鉄所の現場は世界最高の技術をなぜ他人に譲らなければいけないのかと、上からの命令にも抵抗したが、製鉄所のアイデンティティーといえる規定集(製鉄技術マニュアル集)、図面設計、機械の性格を日本の先進製鉄所からほとんどすべて導入することができた[7]。
脚註
- ^ a b “浦項製鉄作成するとき、3〜4時間しか寝ず狂ったように仕事をした(포철 만들때 3~4시간밖에 안자며 미친듯 일했다)”. ハンギョレ. (2011年12月13日) 2016年5月11日閲覧。
- ^ a b c “朴泰俊、偽唐辛子粉売りの顔に拳銃を突きつける(박태준, 가짜 고추가루 납품업자 얼굴에 권총을 겨누다)”. 朝鮮日報. (2014年8月5日) 2016年5月11日閲覧。
- ^ “【コラム】先進国、企業の呼び込みに熱心だが、韓国は…(1)”. 中央日報. (2013年5月31日) 2015年10月25日閲覧。
- ^ 韓国の朴泰俊元首相が死去=知日派、ポスコを世界企業に 時事通信 2011年12月13日閲覧
- ^ “日韓政財界の架け橋、朴泰俊ポスコ名誉会長死去”. 日本ビジネスプレス. (2011年12月19日) 2015年10月25日閲覧。
- ^ [1]ポスコ名誉会長「日本の流行歌を歌って新日鉄の技術移転受けた」(1) 2010年10月25日
- ^ [2]ポスコ名誉会長「日本の流行歌を歌って新日鉄の技術移転受けた」(2) 2010年10月25日1
関連項目
外部リンク
- 박태준(朴泰俊)プロフィール-大韓民國憲政會
公職 | ||
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先代 金鍾泌 |
国務総理 第32代:2000 |
次代 李漢東 |