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「5・16軍事クーデター」の版間の差分

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|目的 =軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立
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2020年8月24日 (月) 11:59時点における版

5・16軍事クーデター
5月18日、陸軍士官学校生徒が行った革命支持の行進を見守る朴正煕少将、朴鐘圭少領、李洛善朝鮮語版少領、車智澈大尉
種類 軍事革命
目的 軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立
対象 ソウル
結果 軍事政権の構築
発生現場 大韓民国の旗 韓国
期間 1961年5月16日
行動 内乱

5・16軍事クーデター(5・16ぐんじクーデター、5·16 군사 쿠데타)は、後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。

背景

クーデターが起こった社会的背景として、

  1. 自由党政権を引き継いだ民主党政権の政治的無策と党内抗争[注釈 1]
  2. 民主的改革に対する民主党の曖昧な態度、経済状況悪化[注釈 2]に対する国民の不安の高まり
  3. 学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動の高まりに対して軍部が危機感を抱いた。

ことがあげられる。そして直接的背景として軍内部の問題が挙げられる。

  1. 分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた[注釈 3]
  2. 不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。

こうした背景の下、金鍾泌予備役中領(中佐)を初めとする陸士8期生の佐官級将校9名[注釈 4]によってクーデター計画が策定され、彼らがクーデターを主導した。

クーデター決行

当初クーデターは、4・19学生革命から1周年となる1961年4月19日を予定し、革命1周年を記念する民衆蜂起或いは学生デモを鎮圧する口実の下に行う予定でいた。しかし、4月19日は期待していた民衆蜂起や学生デモが起こらず平穏に過ぎたため、クーデター部隊を出動させることができず失敗した。そのため、クーデター決行日を5月12日に延期し、再度計画を練り直したが、クーデター勢力の同志である李鍾泰大佐が計画を漏洩してしまったため、再度計画は延期され、1961年5月16日が最終決行日とされた。クーデターに参加した人物および兵力は以下の通りである[2][3]

大邱市制圧部隊
  • 第5管区工兵施設隊隷下1個大隊:徐相潾大領が指揮
  • 第1205工兵旅団隷下3個大隊:2軍司令部工兵部長兼参謀朴基錫大領が指揮
    • 第133工兵隊(長:金鎭國中領)
    • 第208工兵隊(長:張東雲中領)
    • 第1建設工兵隊(長:任光燮中領)

その他参加者:蔡命新(第5師団長)、李哲熙(陸軍防諜部隊長)、康誠元朝鮮語版少領(陸軍情報参謀本部企画官)、宋贊鎬朝鮮語版准将(高射砲旅団長)、尹泰日

  • 憲兵参謀朴泰元大領、砲兵参謀鄭鳳旭大領、心理戦参謀許順五大領、曹昌大・李鐘根・朴容琪・沈怡燮・厳秉吉中領(いずれも1軍司令部参謀、革命に呼応し李翰林司令官を拘束[6]

5月16日午前3時を期してクーデターは決行され、朴正煕少将を最高指揮官とする革命軍は、漢江大橋付近で憲兵第7中隊(中隊長:金錫律大尉)50余名と銃撃戦を行った以外は、大きな抵抗も無しに中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分を制圧した。こうして首都を制圧した革命軍は午前5時、中央放送局の放送を通じて軍事革命が行われたことを全国民に宣布した[7]

革命委員会の設置

革命委員会前で会見に応じる張都暎(左)と朴正煕(右)

クーデターに成功した革命軍は軍事革命委員会を設置し、陸軍参謀総長である張都暎を説得して議長に就任させ、クーデターを指揮した朴正煕は副議長に就任した。そして軍事革命委員会は六項目からなる革命公約を発表した。また軍事革命委員会布告第一号によって全国に戒厳令が敷かれ、一切の屋内集会が禁止、出版や報道に対する事前検閲が実施されるとともに、布告第四号で現政権(張勉政権)の解任と国会及び地方議会の解散、政党や社会団体の活動禁止、張政権の全閣僚と政務委員の逮捕、国家機構の一切の機能を軍事革命委員会が代行することが宣言された。

革命公約
  1. 反共体制の再整備
  2. 国連憲章と国際協定の遵守および自由主義諸国との紐帯強化
  3. 腐敗と不正の一掃による清新な社会の創造
  4. 絶望と飢餓に苦しむ民衆の救済
  5. 国土統一のため共産主義と対決し得る国家の建設
  6. 革命事業の完遂後、清新な政治家への政権移譲
— [8]

クーデター直後、宿舎としていた半島ホテルから脱出し、修道院に身を隠していた張勉首相は5月18日昼に姿を現して臨時閣議を開催、軍事革命委員会への政権移譲を決議した。また尹潽善大統領も非常戒厳令を追認し、軍事革命に対する国民の支持と協力を求める声明を発表した。こうして第二共和国は形式的にも実質的にも崩壊し、軍政が敷かれることになった。

軍事革命委員会発足から三日目の5月19日、名称を国家再建最高会議に改称、治安向上や経済改善などを名目に韓国民の思想・言論を弾圧した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)が発足された。このような朴の政治はその後の韓国政治史の長い軍事政権の土台を築き上げる事となった。

アメリカの反応

朴正煕と手を握り合う在韓国連軍司令官メロイ英語版将軍(5・16軍事クーデター後)

クーデター直後の5月16日午前11時、カーター・B・マグルーダー英語版駐韓米軍司令官は張勉政権を支持しクーデターに反対する声明を、米軍放送を通じて発表した。そして駐韓米代理大使マーシャル・グリーン英語版と共に青瓦台を訪問し、尹潽善大統領にクーデター軍を鎮圧するための動員令を韓国軍に下すことを要請した。しかし、尹大統領は「国軍同士が衝突すればソウルは火の海となり、そのすきに北が南侵する恐れがある」として要請を拒絶した[9]

一方、アメリカ本国のアメリカケネディ政権はクーデターに対し、慎重に静観する態度を取っていたが、クーデターから三日目の5月19日、アメリカ国務省は軍事政権への支持を発表した。そして軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立を標榜する革命公約に大いなる期待を表明した[10][11]

脚注

注釈

  1. ^ 民主党は、新派(旧自由党政権の官僚出身者を中心とした派閥)と旧派(解放直後に結成された韓国民主党の流れを汲む民主国民党出身者を中心とした派閥)によって構成され、両派は激しく対立していた。この対立は自由党政権の崩壊で一気に表面化し、首相選出を巡って旧派は民主党を離脱して61年2月に新民党を結成した。
  2. ^ 当時の韓国における1人あたりのGNPは約80ドルにすぎず、北朝鮮が経済的優位に立っていた。
  3. ^ 朝鮮戦争で規模が拡大した韓国軍では、将校の進級も一足とびで行われ、三十代で将軍になるケースも相次いだ。しかし戦争後は進級が滞り、戦争直前の49年に少尉に任官された金鍾泌など陸士八期生は戦争中に少領(少佐)まで昇進したが、戦争後は七年かかって中領に昇進できた。同年代の将軍が多数いるため、進級の見込みがなかった佐官級将校には不満が蓄積されつつあった[1]
  4. ^ その他8名は金炯旭・吉在號朝鮮語版・玉昌鎬・申允昌・崔浚明・石昌熙・呉尚均。

出典

  1. ^ 『韓国大統領列伝』99-100頁
  2. ^ 第4章「軍事革命政府」 二 五・一六軍事革命の決行。尹景哲著『分断後の韓国政治』木鐸社、234頁。
  3. ^ 直接の出典は、韓国軍事革命史編纂委員会『韓国軍事革命史 (一)』213~220頁。
  4. ^ 朴致玉空輸団長”. 2018年2月8日閲覧。
  5. ^ 金潤根 (2010年6月5日). “5・16軍事革命と今日の韓国12”. 韓国長老新聞. http://jangro.treem.kr/Jculture/detail.htm?aid=1277431707&PHPSESSID=byyjrlnqhs 2011年11月11日閲覧。 
  6. ^ ペ・ジンヨン (2001年5月10日). “軍事革命40周年5・16の主体勢力グループインタビュー「私たちは軍事革命により、反共自由民主体制を守護した」(蔡命新当時5師団長)”. 月刊朝鮮. http://monthly.chosun.com/client/news/viw_r.asp?ctcd=&nNewsNumb=200105100017 2018年2月8日閲覧。 
  7. ^ “16日새벽、軍「쿠데타」發生 軍事革命委員會를組織(16日明け方、軍「クーデター」発生 軍事革命委員会を組織)”. 東亜日報(夕刊). (1961年5月16日). http://gonews.kinds.or.kr/BEFORE_90_IMG/1961/05/16/19610516DAE01.pdf 2011年11月11日閲覧。 
  8. ^ 尹景哲『分断後の韓国政治』、236頁
  9. ^ 前掲書238頁、池東旭『韓国大統領列伝』81頁後段
  10. ^ 尹景哲『分断後の韓国政治』、238頁後段
  11. ^ United States Department of Stats,American Foreign Policy;Current Documents. 1961,(Washington D.C,1965)P975

参考文献