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[[慶尚南道 (日本統治時代)|慶尚南道]][[陜川郡|陜川]]生まれ。[[朝鮮戦争]]中に[[韓国陸軍士官学校|陸軍士官学校]]に入学(11期)。同期には[[盧泰愚]]らがいた。
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[[1960年]]6月、陸軍大尉として崔世昌、張基梧、[[車智澈]]と共にアメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関で6ヶ月間、沼地、山岳・サバイバル訓練などの「レインジャー・トレーニングコース」課程を受けた。また落下傘降下訓練(これはオプションと思われる)を受け、空挺団創設要員となった<ref>張甲済『別冊宝島89 軍部!』 黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁</ref>。


[[朴正煕]]が[[クーデター]]を起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。[[ベトナム戦争]]に[[第9歩兵師団 (韓国陸軍)|第9師団]]<ref>英語版 [[:en:9th Infantry Division (Republic of Korea)]]。[[猛虎師団]]、[[大韓民国海兵隊|青龍師団]]などと共にビンディン省等攻撃と大量虐殺を行ったことで有名。</ref>第29連隊長として参加し<ref>池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年154頁。</ref>、帰国した。
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2020年8月24日 (月) 11:59時点における版

全斗煥
전두환


任期 1980年9月1日1988年2月24日
首相 南悳祐 (1980-1982)
劉彰順朝鮮語版 (1982)
金相浹朝鮮語版 (1982-1983)
陳懿鍾 (1983-1985)
盧信永朝鮮語版 (1985-1987)
金貞烈 (1987-1988)

出生 (1931-01-18) 1931年1月18日(93歳)
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 慶尚南道陜川郡栗谷面内川里
政党 民主正義党
出身校 陸軍士官学校
配偶者 李順子
署名
全斗煥
全と妻の李順子
各種表記
ハングル 전두환
漢字 全斗煥
発音: チョン・ドゥファン
日本語読み: ぜん・とかん
ローマ字 Jeon Du-hwan(2000年式
Chŏn Tuhwan(MR式
英語表記: Chun Doo-hwan
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全 斗煥(チョン・ドゥファン、: 전두환、日本語読み: ぜん とかん 1931年1月18日 - )は、韓国軍人政治家。第11・12代大統領(在任:1980年 - 1988年)。本貫は、旌善全氏は「日海」(イレ/イルヘ、일해)。

経歴

慶尚南道陜川生まれ。朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学(11期)。同期には盧泰愚らがいた。

1960年6月、陸軍大尉として崔世昌、張基梧、車智澈と共にアメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関で6ヶ月間、沼地、山岳・サバイバル訓練などの「レインジャー・トレーニングコース」課程を受けた。また落下傘降下訓練(これはオプションと思われる)を受け、空挺団創設要員となった[1]

朴正煕クーデターを起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。ベトナム戦争第9師団[2]第29連隊長として参加し[3]、帰国した。

1969年、特戦団司令部が創設された。第一空挺旅団を母体として次々と旅団が生まれてゆき、自らも第一旅団長を務めた[4]。この特殊戦略司令部を経て1979年に国軍保安司令官になる。

1979年10月26日朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺を実行した金載圭を逮捕、処刑するなど事件の捜査を指揮する。同年12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。翌1980年5月17日5・17非常戒厳令拡大措置を実施。クーデター後に金大中軍法会議で死刑判決を受けて後に無期懲役に減刑されるものの、アメリカに出国)を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民が多数虐殺された(光州事件)。社会的に弱者とされる失業者やホームレス、あるいは犯罪者や学生運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍隊の「三清教育隊」で過酷な訓練と強制労働を課した。特に後者は暴行などで52人の死者を出し(後遺症の死者は397人)、2768人に精神障害を残すなど計り知れない傷跡を残した。あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられたという。逮捕された者の中には光州事件に連座した高校生や主婦、14歳の女子中学生も含まれていた。同年9月に大統領就任。翌1981年から第五共和国政府がスタートした。

全斗煥が第11代大韓民国大統領に就任した直後の1980年10月10日北朝鮮金日成主席第6回朝鮮労働党大会連邦制による朝鮮統一案として「高麗(コリョ)民主連邦共和国」設立を訴えたが、この案を全斗煥は拒否した。

1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。ほぼ同時期に第一次教科書問題が発生し、これを批判した。ただし、これは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていたが、日本は呑めないということで膠着していた全斗煥が、自らの独裁権力の強化のために、日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある。

1983年にはミャンマーアウンサン廟へ赴いた際、北朝鮮工作員による全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生する。彼自身は難を逃れたものの、事件で多くの閣僚を失った。さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。また、中国民航機韓国着陸事件も起きた。

1984年戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど[5]、日本と向き合う姿勢を強調した。また、来日した全斗煥は1986年アジア競技大会に向けて中華人民共和国と国交のある日本の中曽根康弘内閣総理大臣に対して中韓と日朝が同時に国家承認する計画への協力を要請した[6]。これを受け、1986年に訪中した中曽根首相は、親交のある胡耀邦総書記に対して中国に国交樹立、またはLT貿易事務所や通商代表部の設置、韓国も加えた朝鮮戦争休戦協定当事国との4者会談、1988年ソウルオリンピックへの参加を要望する全斗煥の意向を伝えて日朝貿易も行う用意があると述べた[7][8]。後に1986年アジア競技大会とソウル五輪への中国の参加や中韓国交正常化は実現するも、この時点で胡耀邦総書記は韓国の対中姿勢を評価しつつ北朝鮮の反発を理由にこの提案に否定的だった[8]

日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、反政府活動の取り締まりも強化し、大学生の副業の禁止や卒業の制限、学生運動に関連した学生を強制的に入営させて密告やスパイを奨励させる「緑化事業」を行った。また、全斗煥政権下では国家保衛立法会議によって朴正煕政権時代に制定された反共法国家保安法に統合される形で廃止されると共に、言論基本法が制定され、言論統廃合が行われている。全斗煥の大統領在任中テレビでは、全政権批判は一切許されず、韓国標準時21時の「KBSニュース9」が必ず全斗煥賛美のニュースで開始されたため、テンジョンニュース等と揶揄された。

1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。

全斗煥に対しては独裁者虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展オリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという保守派からの擁護論もある。

退任後には自ら財団を設置し院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した[9]。その後も光州事件や不正蓄財疑惑への追及が止まず、ついには訴追されて死刑判決を受けた(金大中の計らいにより、減刑の後、特赦)。2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。

2013年、いわゆる「全斗煥追徴法」が成立し、一族の不正蓄財に対する強制捜査が行われ、同年9月10日、滞納が続いていた追徴金の未納分1672億ウォンについて、完済すると発表した[10]

この際に検察の捜査などを受けたことがきっかけに記憶喪失を起こしその後アルツハイマーの診断を受けたと主張し、2018年8月28日の名誉毀損罪で起訴された刑事裁判の出廷を拒否した[11]。しかし、アルツハイマーと診断されたと主張している2013年以降も外部の行事に何度も出席し、2017年に回顧録を出版(後述)していることなどから、アルツハイマーのため出廷できないとの全斗煥側の主張は疑問視されている[12][13][14]。2019年1月16日には、全斗煥が2018年12月にもゴルフ場でゴルフをしていたという目撃証言が報じられ、病状に対する全斗煥側の主張への疑問はさらに深まり、批判が高まった[15]

2017年に出版された回顧録の中に、軍を指揮して対応した光州事件に触れる記述があり、後に遺族より死者に対する名誉棄損の罪に問われた。2017年8月19日までに光州地方裁判所は、回顧録の発売を禁止する仮処分を下した[16]ことに続き、2018年5月には全斗煥を在宅起訴。2019年3月11日には、裁判所からの強制出頭命令を受け、全斗煥が出廷した[17]

以降、全斗煥は再び裁判を欠席し続けているが、本人が高齢であること、警護上の理由から、裁判所は本人の欠席を認めている。しかしその一方で、2019年12月には粛軍クーデター40年を記念するパーティーに出席していたことが報じられ、再び批判が高まっている[18]

経済の建て直し

全斗煥が大統領に就任して第一に目標としたのは、漢江の奇跡以来の経済成長の夢の再来だった。就任当時、経済成長率はマイナス4.8%、物価上昇率は42.3%、44億ドルの貿易赤字を抱えていた。経済成長をなくして国は成立しないと考えた全斗煥は、執務の合間に経済学博士財界実業家などを呼び、大幅に時間を割いて経済の勉強を開始した。この際、「国民総生産600億ドルを目指し、日本から学んで、日本に追いつこう」をキャッチフレーズとした。

経済政策は、朴正煕時代に作られた経済企画院ではなく、青瓦台の経済首席に任せ、自らが事実上経済政策の主導権を握った。

この結果、1987年の経済成長率は12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字は114億ドル、国民一人当たりGNPは3098ドル、国民総生産は1284億ドルと、主要な経済指数のほとんどを上向かせることに成功した。

対日姿勢

全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の領土[19]となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道された。

1981年8月15日光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張している。

また、翌年の光復節記念式典においても、歴史教科書問題により、日本人に対するタクシーの乗車拒否が起こるなど、反日感情が渦巻いていた韓国において、前述の通り強硬的な姿勢を見せながらも、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と述べ、「克日」を強調した。

その一方で1982年には日韓基本条約締結時に棚上げを約束していた竹島を「独島海鳥類繁殖地」として韓国の天然記念物に指定した[20]

訪日

1984年9月に全が国賓として初訪日した際、昭和天皇は同年9月6日、宮中晩餐会の席上「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」と述べた[21]。韓国の外交文書によると、韓国政府が日本側に対し昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていた[21]。また、拳骨拓史によれば、全は宮中晩餐会の前日に安倍晋太郎外務大臣と会談し、「弱い立場だと豊かな人、強い人に対してひねくれを感じ、相手が寛大にしても誤解をもつこともある。だから強かったり、豊かな人が少しくらい損をしても寛大な気持を持つべき。」「韓日の過去の誤解は大部分そういうものだった」と述べたという[22]

拳骨は、韓国はこれ以降、大統領が交代するごとに日本に対して謝罪要求を行うようになったと述べている[22]

その他

  • 1968年1月21日青瓦台襲撃未遂事件が起きた際は、首都警備司令部の大隊長として、迫撃砲照明弾を打ち上げてソウル市内を昼のように照らし出した。後に生け捕りにされたゲリラの一人は、「迫撃砲と照明弾で、既に包囲されたと観念した」と話していた。
  • 1974年9月には、第一師団師団長として、北朝鮮が軍事休戦ラインを越えて掘り進んでいた南進トンネルを発見した。
  • 前述の通り、韓国の陸軍士官学校を卒業している事から、全斗煥は歴代の韓国の大統領では初めて、純粋な自国の教育を受けた経験がある人物となる(李承晩張勉はアメリカで、朴正煕崔圭夏は日本で教育を受けていた)。この事から全斗煥は、韓国の指導者としての正統性をアピールするために、「ハングル世代で、正規の士官学校を卒業した」という事をしばしば強調していた。
  • 全斗煥については、韓国のテレビドラマ『第5共和国』において、その集権過程から没落まで詳しく描かれている。
  • 国民への政治批判をかわす目的で、朴政権と異なって、娯楽には寛大な姿勢をとった。プロ野球の創設やソウルオリンピックの誘致、サッカー選手の育成。映画法改正による表現の自由の緩和と外国映画輸入やポルノ映画制作の解禁、観光業サービス業、特に性産業の許容などである。いずれも国民からは好評であったが、一方でスポーツ、映画(screen)、セックスの頭文字をとって3S政策と揶揄された。
  • 全斗煥は、朴正煕大統領の黙認のもと、陸士卒業生のうち主として嶺南出身の優秀な将校を糾合して私組織ハナフェ(一心会)も結成した。このハナフェ・メンバーは互いに気脈を通じて首都警備司令部、保安司令部、特戦司令部、大統領警護室、西部戦線の各師団など要職を仲間同士でたらい回しした[23]
  • 2015年11月、アメリカは全一族の隠し財産を韓国に返還することで合意した。
  • 2002年の大統領選挙への立候補を模索していた朴槿恵(後に18代大統領)から支援要請を受けたものの、「朴氏に与えられた条件と能力では無理な欲であり、朴氏が大統領になることには成功するかもしれないが、『大統領の職』を成功裏に遂行するのは難しいと見込み、失敗すれば『父の朴正熙元大統領に恥をかかせる結果になるかもしれない』との懸念を伝えさせた」として、立候補を取りやめるよう求めたという[24]

経歴

参考文献

脚注

  1. ^ 張甲済『別冊宝島89 軍部!』 黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁
  2. ^ 英語版 en:9th Infantry Division (Republic of Korea)猛虎師団青龍師団などと共にビンディン省等攻撃と大量虐殺を行ったことで有名。
  3. ^ 池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年154頁。
  4. ^ 張甲済『別冊宝島89 軍部!』 黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁
  5. ^ [1]
  6. ^ “全斗煥元大統領、訪日前に日本に圧力…天皇、初めて過去の歴史に遺憾表明”. 中央日報. (2015年3月31日). http://japanese.joins.com/article/296/198296.html 2019年10月6日閲覧。 
  7. ^ “中曽根氏、中韓を仲介 外交文書で判明「希望伝えてと」”. 朝日新聞. (2017年12月26日). https://www.asahi.com/articles/ASKDN2G9XKDNUHBI002.html 2017年12月27日閲覧。 
  8. ^ a b “日朝貿易へ「用意ある」 中曽根首相、中国に提起 韓国の国交樹立要望伝達 86年会談、外交文書”. 日本経済新聞. (2017年12月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24847300Q7A221C1EAF000/ 2017年12月20日閲覧。 
  9. ^ 特別談話
  10. ^ なお全斗煥は、全財産は29万ウォンしかないと主張している。[2]
  11. ^ 全斗煥元大統領がアルツハイマー病で裁判に出廷できず 夫人が明らかに”. 産経新聞 (2018年8月27日). 2018年8月27日閲覧。
  12. ^ “社説 全斗煥氏はこれ以上遅れないよう光州の英霊の前にひざまずけ”. ハンギョレ. (2018年8月28日). http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/31473.html 2018年8月29日閲覧。 
  13. ^ “팩트체크 재판 불출석 전두환, '알츠하이머 투병' 이후 행적 어땠나(ファクトチェック 裁判欠席全斗煥、「アルツハイマー病闘病」以後の行跡どうだったか)”. 聯合ニュース. (2018年8月28日). https://news.v.daum.net/v/20180828174300855 2018年8月29日閲覧。 
  14. ^ “'알츠하이머 불출석' 전두환에게 왜 분노하나(「アルツハイマーで欠席」全斗煥になぜ怒りしかないか)”. 世界日報. (2018年8月28日). https://news.v.daum.net/v/20180828071021257 2018年8月29日閲覧。 
  15. ^ “「アルツハイマーで裁判に行けない」とした全斗煥氏、ゴルフはしっかり打っていた”. ハンギョレ. (2019年1月16日). http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32584.html 2019年1月17日閲覧。 
  16. ^ 全斗煥氏回顧録が出版・販売禁止 韓国・光州事件の映画好調 ”. 千葉日報 (2017年8月19日). 2019年3月11日閲覧。
  17. ^ 韓国の全斗煥氏が光州地裁に出廷”. 産経新聞 (2019年3月11日). 2019年3月11日閲覧。
  18. ^ “'골프, 12·12 오찬' 전두환 재판 불출석 허가 놓고 법정공방(「ゴルフ、12・12午餐」全斗煥裁判欠席許可めぐり法廷攻防)”. 聯合ニュース. (2019年12月16日). https://www.yna.co.kr/view/AKR20191216102151054?input=1195m 2019年12月17日閲覧。 
  19. ^ 韓国併合
  20. ^ http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/01/18/2017011801825.html
  21. ^ a b 韓国元大統領「昭和天皇」に遺憾と反省求める…“植民地支配”「最大限強い言葉で反省を」 韓国外交文書で発覚産経新聞(2015.3.30)web魚拓
  22. ^ a b http://ironna.jp/article/2232
  23. ^ 池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年154頁。
  24. ^ 全斗煥氏「朴槿恵氏に大統領職は困難と判断」=回顧録で語る - 聯合ニュース、2017年3月30日
  25. ^ 今日の歴史(3月20日) 聯合ニュース 2009/03/20
公職
先代
崔圭夏
大韓民国の旗 大韓民国大統領
第11代:1980 - 1981
第12代:1981 - 1988
次代
盧泰愚