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2009年9月には知識経済部長官に就任し、任期中の2010年6月に知識経済R&D戦略企画団を立ち上げ、韓国における[[研究開発]]戦略の改革を行った<ref>{{Cite web|url=http://www.jetro-ipr.or.kr/newsSearch_view.asp?news_idx=2729&syear=1999&smonth=1&sday=1&eyear=2010&emonth=8&eday=2&keyword=&page=4|title=知識経済R&D戦略企画団、公式発足|publisher=[[日本貿易振興機構]]ソウル知的財産チーム|accessdate=2015-11-18}}</ref>。2011年1月に知識経済部長官を退任。 |
2009年9月には知識経済部長官に就任し、任期中の2010年6月に知識経済R&D戦略企画団を立ち上げ、韓国における[[研究開発]]戦略の改革を行った<ref>{{Cite web|url=http://www.jetro-ipr.or.kr/newsSearch_view.asp?news_idx=2729&syear=1999&smonth=1&sday=1&eyear=2010&emonth=8&eday=2&keyword=&page=4|title=知識経済R&D戦略企画団、公式発足|publisher=[[日本貿易振興機構]]ソウル知的財産チーム|accessdate=2015-11-18}}</ref>。2011年1月に知識経済部長官を退任。 |
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2013年5月にセヌリ党の院内代表に就任し、2014年5月に退任。2014年4月に発生した[[セウォル号沈没事故]]の責任をとって辞任を表明した[[鄭 |
2013年5月にセヌリ党の院内代表に就任し、2014年5月に退任。2014年4月に発生した[[セウォル号沈没事故]]の責任をとって辞任を表明した[[鄭烘原]]国務総理の後任に名前が挙げられたこともある<ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/505/185505.html|title=青瓦台「朴大統領UAE訪問後に首相人選・改閣」|newspaper=[[中央日報]]|date=2014-05-20|accessdate=2015-11-17}}</ref>(結局は鄭が翌年まで続投した)。2014年7月からは[[企画財政部|企画財政部長官]]に就任(同ポストは経済副首相を兼任することと定められているため、同時に就任)。後述する、'''チョイノミクス'''と呼ばれる[[経済政策]]を打ち出し、[[景気]]対策に取り組んだ。 |
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2015年4月、[[李完九]]首相が不正資金疑惑を理由として辞任を表明し、経済副首相の崔が首相権限代行を務めることとなった。6月18日に[[法務部 (大韓民国)|法務部長官]]の[[黄教安]]が後継の首相に就任し、崔は首相権限代行を退任した。2016年1月12日に企画財政部長官を退任し、これに伴い経済副首相も退任<ref>{{Cite news|url=http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_Po_detail.htm?No=57494|title=新経済副総理ら5人を入れ替え |work=KBS WORLD Radio News|newspaper=[[KBSワールドラジオ]]|date=2015-12-22|accessdate=2016-01-15}}</ref>。4月13日の[[第20代総選挙 (大韓民国)|第20代総選挙]]でセヌリ党は大敗し、[[金武星]]前党代表とともに責任が問われた<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/3/all/27/532622/1|title=総選挙敗北のセヌリ党、金武星氏と崔炅煥氏の「静中の動」|work=dongA.com|newspaper=[[東亜日報]]|date=2016-04-21|accessdate=2016-08-23}}</ref>。 |
2015年4月、[[李完九]]首相が不正資金疑惑を理由として辞任を表明し、経済副首相の崔が首相権限代行を務めることとなった。6月18日に[[法務部 (大韓民国)|法務部長官]]の[[黄教安]]が後継の首相に就任し、崔は首相権限代行を退任した。2016年1月12日に企画財政部長官を退任し、これに伴い経済副首相も退任<ref>{{Cite news|url=http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_Po_detail.htm?No=57494|title=新経済副総理ら5人を入れ替え |work=KBS WORLD Radio News|newspaper=[[KBSワールドラジオ]]|date=2015-12-22|accessdate=2016-01-15}}</ref>。4月13日の[[第20代総選挙 (大韓民国)|第20代総選挙]]でセヌリ党は大敗し、[[金武星]]前党代表とともに責任が問われた<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/3/all/27/532622/1|title=総選挙敗北のセヌリ党、金武星氏と崔炅煥氏の「静中の動」|work=dongA.com|newspaper=[[東亜日報]]|date=2016-04-21|accessdate=2016-08-23}}</ref>。 |
2020年8月24日 (月) 11:58時点における版
崔炅煥 최경환 Choi Kyoung-hwan | |
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生年月日 | 1955年6月22日(69歳) |
出生地 | 韓国 慶尚北道慶山郡(現在の慶山市) |
所属政党 |
(セヌリ党→) 自由韓国党 |
公式サイト | 최경환 의원 |
第57代 大韓民国企画財政部長官 | |
内閣 |
鄭烘原内閣 李完九内閣 崔炅煥暫定内閣 黄教安内閣 |
在任期間 | 2014年7月15日 - 2016年1月12日 |
大統領 | 朴槿恵 |
大韓民国国務総理権限代行 | |
内閣 | 崔炅煥暫定内閣 |
在任期間 | 2015年4月27日 - 2015年6月18日 |
大統領 | 朴槿恵 |
第2代 大韓民国知識経済部長官 | |
内閣 |
韓昇洙内閣 鄭雲燦内閣 尹増鉉暫定内閣 金滉植内閣 |
在任期間 | 2009年9月19日 - 2011年1月26日 |
大統領 | 李明博 |
崔炅煥(チェ・ギョンファン) | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 최경환 |
漢字: | 崔炅煥 |
発音: | チェギョンファン |
日本語読み: | さい きょうかん |
ローマ字: | Choi Kyoung-hwan |
崔 炅煥(チェ・ギョンファン、최경환、1955年6月22日 - )は、韓国の政治家。現在、同国国会議員。企画財政部長官(第57代)、経済副首相、国務総理(首相に相当)権限代行、知識経済部長官(第2代、現在は産業通商資源部に改編)などを歴任した。公職以外では、韓国女子バスケットボールリーグ(WKBL)総裁も務めた[1]。
人物
朴槿恵系議員の核心、重鎮と表現されるほど、朴の国政哲学を理解しているとされている[2][3]。朴槿恵に対して機嫌を損ねないように直言でき、たとえ不快な顔をされても翌日にまた話すことができる人物とも評され、また朴槿恵も崔を行動派として信頼しているとされる[1]。
政策としては大企業と中小企業の共存共栄を目指す経済民主化を支持する一方、成長に重点を置いており、財閥解体にも反対している[1]。
経歴
1955年6月22日、慶尚北道慶山郡(現在の慶山市)出身[4]。大邱高校、延世大学校経済学科を卒業後、アメリカのウィスコンシン大学で経済学博士を取得[1]。1978年に行政考試に合格。1997年、金泳三政権下で大統領秘書室の経済首席補佐官となった。1999年5月からは韓国経済新聞論説委員[4]、後に同紙編集局副局長[1]。
2004年5月にハンナラ党から国会議員(第17代)に初当選し、以後当選を重ねている。第4政策調停委員長を務め、当時ハンナラ党代表だった朴槿恵とともに行政首都移転に取り組み[1]、2007年大統領選挙ではハンナラ党予備選挙にて朴槿恵陣営の総合状況室長を務め、2012年大統領選挙では崔をトップとした体制で朴槿恵陣営の実務準備を行うなど[1]、朴槿恵との関係は深い。
2009年9月には知識経済部長官に就任し、任期中の2010年6月に知識経済R&D戦略企画団を立ち上げ、韓国における研究開発戦略の改革を行った[5]。2011年1月に知識経済部長官を退任。
2013年5月にセヌリ党の院内代表に就任し、2014年5月に退任。2014年4月に発生したセウォル号沈没事故の責任をとって辞任を表明した鄭烘原国務総理の後任に名前が挙げられたこともある[6](結局は鄭が翌年まで続投した)。2014年7月からは企画財政部長官に就任(同ポストは経済副首相を兼任することと定められているため、同時に就任)。後述する、チョイノミクスと呼ばれる経済政策を打ち出し、景気対策に取り組んだ。
2015年4月、李完九首相が不正資金疑惑を理由として辞任を表明し、経済副首相の崔が首相権限代行を務めることとなった。6月18日に法務部長官の黄教安が後継の首相に就任し、崔は首相権限代行を退任した。2016年1月12日に企画財政部長官を退任し、これに伴い経済副首相も退任[7]。4月13日の第20代総選挙でセヌリ党は大敗し、金武星前党代表とともに責任が問われた[8]。
2018年1月4日、情報機関の国家情報院から巨額の賄賂を受け取っていたとして収賄の疑いで逮捕された。副首相兼企画財政部長官を務めていた2014年に、国家情報院の情報収集などに使われる特殊活動費の削減を防ぐため予算編成で影響力を行使するよう同院幹部から依頼を受け、見返りとして特殊活動費から1億ウォンを受け取っていた疑いが持たれている[9]。
チョイノミクス
崔が経済副首相就任後に打ち出した経済政策はチョイノミクス(초이노믹스)と呼称された。日本の安倍晋三内閣総理大臣によって進められた経済政策の通称アベノミクスにならって作られた造語(Choi+economics)とされる[10]。
2014年7月に内需活性化と民生安定、経済革新を柱とした「新経済チームの経済政策方向」が発表され、これがチョイノミクスの原型とされている[11]。主な政策には財政12兆ウォンと金融26兆ウォンを中心とした合計46兆ウォンの資金投入[11]、不動産融資規制の一部緩和、景気刺激を目的にした税制改正、2015年度予算の増額(375.4兆ウォン、前年比+19.6兆ウォン)などがある[12]。発表直後は期待感が膨らみ株価上昇、住宅取引が活況を呈するなど効果が現れたが、大きな効果はすぐに収束し、実際の財政投入や金融支援などはそれほど執行されなかった[11]。崔自身は2015年10月の時点では、チョイノミクスは満足するほどではないにせよ、成果が現れていると自己評価している[13]。
出典
- ^ a b c d e f g “大統領に「直言」する崔炅煥氏、経済副首相に内定”. 東亜日報. (2014年6月14日) 2015年11月18日閲覧。
- ^ “朴大統領「首相に国家改革の適任者探している」(1)”. 中央日報. (2014年6月3日) 2015年11月17日閲覧。
- ^ “朴大統領、経済副首相ら7部署の改閣断行”. 中央日報. (2014年6月13日) 2015年11月17日閲覧。
- ^ “知識経済R&D戦略企画団、公式発足”. 日本貿易振興機構ソウル知的財産チーム. 2015年11月18日閲覧。
- ^ “青瓦台「朴大統領UAE訪問後に首相人選・改閣」”. 中央日報. (2014年5月20日) 2015年11月17日閲覧。
- ^ “新経済副総理ら5人を入れ替え ”. KBSワールドラジオ. (2015年12月22日) 2016年1月15日閲覧。
- ^ “総選挙敗北のセヌリ党、金武星氏と崔炅煥氏の「静中の動」”. 東亜日報. (2016年4月21日) 2016年8月23日閲覧。
- ^ “韓国元副首相を逮捕=情報機関から巨額の賄賂”. 時事通信. (2018年1月4日) 2018年1月4日閲覧。
- ^ “초이노믹스 : チョイノミクス”. kpdia. 2015年11月18日閲覧。
- ^ a b c “【コラム】チョイノミクスは本当に失敗したのか=韓国(2)”. 中央日報. (2014年11月5日) 2015年11月17日閲覧。
- ^ 向山英彦 (2015年5月29日). “【トピックス】政策にやや手詰まり感がみられる韓国”. 株式会社日本総合研究所 2015年11月17日閲覧。
- ^ “[社説]金融改革に手をつけたばかりの崔炅煥副首相が総選挙出馬を口にすれば”. 東亜日報. (2015年10月16日) 2015年11月18日閲覧。
公職 | ||
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先代 玄旿錫 |
大韓民国企画財政部長官 第57代:2014年7月15日 - 2016年1月12日 |
次代 柳一鎬 |
先代 李完九 |
大韓民国国務総理 (権限代行)2015年4月27日 - 2015年6月18日 |
次代 黄教安 |
先代 李允鎬 |
大韓民国知識経済部長官 第2代:2009年9月19日 - 2011年1月26日 |
次代 崔重卿 |