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[[公孫賀]]は夫人が[[衛子夫|衛皇后]]の姉であったために重用され、[[太僕]]を経て[[丞相]]に引き立てられていた<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀夫人君孺,衛皇后姊也,賀由是有寵。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“丞相公孫賀夫人君孺,衞皇后姊也,賀由是有寵。”</ref>。子の公孫敬声は父に代わって太僕となったが、皇后の甥であることを笠に着て驕奢の振る舞いが多く、北軍の軍費を横領したことが発覚して投獄された<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀子敬聲,代賀為太僕,父子並居公卿位。敬聲以皇后姊子,驕奢不奉法,征和中擅用北軍錢千九百萬,發覺,下獄。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“賀子敬聲代父為太僕,驕奢不奉法,擅用北軍錢千九百萬;發覺,下獄。”</ref>。公孫賀は、陽陵の大侠客として知られた朱安世という者を捕え、それと引き換えに公孫敬声の罪を除こうとした。ところが捕えられた朱安世は「丞相の災いは皇族にまで及ぶぞ。南山の竹を全て使っても俺の自白を書き留めるのに足らず、斜谷の木を全て使っても俺の手かせ足かせを作るのに足らないだろうよ」と笑った。そして獄中から、公孫敬声が陽石公主(武帝の娘)と密通していること、甘泉宮(離宮)への道に偶人を埋めて武帝を呪っていることを告発したのである<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“是時詔捕陽陵朱安世不能得,上求之急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。安世者,京師大俠也,聞賀欲以贖子,笑曰:「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭,斜谷之木不足為我械。」安世遂從獄中上書,告敬聲與陽石公主私通,及使人巫祭祠詛上,且上甘泉當馳道埋偶人,祝詛有惡言。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時詔捕陽陵大俠朱安世甚急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪,上許之。後果得安世。安世笑曰:「丞相禍及宗矣!」遂從獄中上書,告「敬聲與陽石公主私通;上且上甘泉,使巫當馳道埋偶人,祝詛上,有惡言。」”</ref>。 |
[[公孫賀]]は夫人が[[衛子夫|衛皇后]]の姉であったために重用され、[[太僕]]を経て[[丞相]]に引き立てられていた<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀夫人君孺,衛皇后姊也,賀由是有寵。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“丞相公孫賀夫人君孺,衞皇后姊也,賀由是有寵。”</ref>。子の公孫敬声は父に代わって太僕となったが、皇后の甥であることを笠に着て驕奢の振る舞いが多く、北軍の軍費を横領したことが発覚して投獄された<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀子敬聲,代賀為太僕,父子並居公卿位。敬聲以皇后姊子,驕奢不奉法,征和中擅用北軍錢千九百萬,發覺,下獄。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“賀子敬聲代父為太僕,驕奢不奉法,擅用北軍錢千九百萬;發覺,下獄。”</ref>。公孫賀は、陽陵の大侠客として知られた朱安世という者を捕え、それと引き換えに公孫敬声の罪を除こうとした。ところが捕えられた朱安世は「丞相の災いは皇族にまで及ぶぞ。南山の竹を全て使っても俺の自白を書き留めるのに足らず、斜谷の木を全て使っても俺の手かせ足かせを作るのに足らないだろうよ」と笑った。そして獄中から、公孫敬声が陽石公主(武帝の娘)と密通していること、甘泉宮(離宮)への道に偶人を埋めて武帝を呪っていることを告発したのである<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“是時詔捕陽陵朱安世不能得,上求之急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。安世者,京師大俠也,聞賀欲以贖子,笑曰:「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭,斜谷之木不足為我械。」安世遂從獄中上書,告敬聲與陽石公主私通,及使人巫祭祠詛上,且上甘泉當馳道埋偶人,祝詛有惡言。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時詔捕陽陵大俠朱安世甚急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪,上許之。後果得安世。安世笑曰:「丞相禍及宗矣!」遂從獄中上書,告「敬聲與陽石公主私通;上且上甘泉,使巫當馳道埋偶人,祝詛上,有惡言。」”</ref>。 |
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征和2年春正月、公孫賀も投獄されて公孫敬声とともに獄死、[[族誅|一族はみな誅せられた]]<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“二年春正月,丞相賀下獄死。”</ref><ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“下有司案驗賀,窮治所犯,遂父子死獄中,家族。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“春,正月,下賀獄,案驗;父子死獄中,家族。”</ref>。代わって[[中山靖王]]の子で[[涿郡]]太守の[[ |
征和2年春正月、公孫賀も投獄されて公孫敬声とともに獄死、[[族誅|一族はみな誅せられた]]<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“二年春正月,丞相賀下獄死。”</ref><ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“下有司案驗賀,窮治所犯,遂父子死獄中,家族。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“春,正月,下賀獄,案驗;父子死獄中,家族。”</ref>。代わって[[中山靖王]]の子で[[涿郡]]太守の[[劉屈氂]]が丞相を拝命した<ref>『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“劉屈氂,武帝庶兄中山靖王子也,不知其始所以進。征和二年春,制詔御史:「故丞相賀倚舊故乘高勢而為邪,興美田以利子弟賓客,不顧元元,無益邊穀,貨賂上流,朕忍之久矣。終不自革,乃以邊為援,使內郡自省作車,又令耕者自轉,以困農煩擾畜者,重馬傷秏,武備衰減;下吏妄賦,百姓流亡;又詐為詔書,以姦傳朱安世。獄已正於理。其以涿郡太守屈氂為左丞相,分丞相長史為兩府,以待天下遠方之選。夫親親任賢,周唐之道也。以澎戶二千二百封左丞相為澎侯。」”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“以涿郡太守劉屈氂為丞相,封澎侯。屈氂,中山靖王子也。”</ref>。夏閏4月には武帝の娘である諸邑公主と陽石公主、衛皇后の甥で[[衛青]]の子である長平侯衛伉が誅せられた<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“閏月,諸邑公主、陽石公主皆坐巫蠱死。”</ref><ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“丞相公孫賀父子,陽石、諸邑公主,及皇后弟子長平侯衛伉皆坐誅。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“閏月,諸邑公主、陽石公主及皇后弟子長平侯伉皆坐巫蠱誅。”</ref>。その頃、武帝は甘泉宮へ行幸した<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“夏,行幸甘泉。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上行幸甘泉。”</ref>。武帝が甘泉宮で病床に臥せっていることを知った[[江充]]は、太子劉拠(衛皇后の子、衛太子と称される)や衛皇后に憎まれていたことから老齢の武帝が崩御した後に誅せられるのを恐れ、皇帝の病は巫蠱によるものと奏上し、巫蠱の摘発を命ぜられる<ref>『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“後上幸甘泉,疾病,充見上年老,恐晏駕後為太子所誅,因是為姦,奏言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者治巫蠱。”</ref><ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“充與太子及衛氏有隙,恐上晏駕後為太子所誅,會巫蠱事起,充因此為姦。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“江充自以與太子及衞氏有隙,見上年老,恐晏駕後為太子所誅,因是為姦,言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者,治巫蠱獄。”</ref>。江充は胡巫を率い、地面を掘り返して偶人を捜索し、呪い師の類いを捕えては証拠をでっちあげ、拷問にかけて自白させた。人々はお互いに巫蠱の罪で誣告しあい、連座して死ぬ者は数万人に及んだという<ref>『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“充將胡巫掘地求偶人,捕蠱及夜祠,視鬼,染汙令有處,輒收捕驗治,燒鐵鉗灼,強服之。民轉相誣以巫蠱,吏輒劾以大逆亡道,坐而死者前後數萬人。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“充將胡巫掘地求偶人,捕蠱及夜祠、視鬼,染汙令有處,輒收捕驗治,燒鐵鉗灼,強服之。民轉相誣以巫蠱,吏輒劾以為大逆無道;自京師、三輔連及郡、國,坐而死者前後數萬人。”</ref>。 |
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年老いた武帝は左右の臣下がみな巫蠱により自分を呪っているのではないかと疑い、その事実の有無にかかわらずあえて冤罪を訴えようとする者もいなかった。江充はこれに付け入り、宮中の蠱気を除かねば武帝の快癒はないと胡巫の檀何という者に言上させ、按道侯[[韓説]]、[[御史]]の章贛、[[黄門侍郎|黄門]]の蘇文らとともに宮中を捜索した。後宮で寵愛を受けていない夫人から捜索を始め、皇后宮を経て太子宮にまで至り、ついに偶人を発見した<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“秋七月,按道侯韓說、使者江充等掘蠱太子宮。”</ref><ref>『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛,有與亡,莫敢訟其冤者。充既知上意,因言宮中有蠱氣,先治後宮希幸夫人,以次及皇后,遂掘蠱於太子宮,得桐木人。”</ref><ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“充典治巫蠱,既知上意,白言宮中有蠱氣,入宮至省中,壞御座掘地。上使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充遂至太子宮掘蠱,得桐木人。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛;有與無,莫敢訟其冤者。充旣知上意,因胡巫檀何言:「宮中有蠱氣;不除之,上終不差。」上乃使充入宮,至省中,壞御座,掘地求蠱;又使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充先治後宮希幸夫人,以次及皇后、太子宮,掘地縱橫,太子、皇后無復施牀處。充云:「於太子宮得木人尤多,又有帛書,所言不道;當奏聞。」”</ref>。驚愕した衛太子は[[太子少傅]]の石徳([[石慶]]の子)に問うたが、連座して誅せられることを恐れた石徳は[[秦]]の[[扶蘇]]を引き合いに出し、武帝の使者を騙ってでも江充を捕えてその陰謀を暴くように勧めた。衛太子は初め逡巡したが、衛太子を捕えようとする江充の動きが速かったため、結局は石徳の言に従った<ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“時上疾,辟暑甘泉宮,獨皇后、太子在。太子召問少傅石德,德懼為師傅并誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衛氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明,可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報,上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事耶?」太子急,然德言。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子懼,問少傅石德。德懼為師傅幷誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衞氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明。可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報;上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事邪!」太子曰:「吾人子,安得擅誅!不如歸謝,幸得無罪。」太子將往之甘泉,而江充持太子甚急;太子計不知所出,遂從石德計。”</ref>。 |
年老いた武帝は左右の臣下がみな巫蠱により自分を呪っているのではないかと疑い、その事実の有無にかかわらずあえて冤罪を訴えようとする者もいなかった。江充はこれに付け入り、宮中の蠱気を除かねば武帝の快癒はないと胡巫の檀何という者に言上させ、按道侯[[韓説]]、[[御史]]の章贛、[[黄門侍郎|黄門]]の蘇文らとともに宮中を捜索した。後宮で寵愛を受けていない夫人から捜索を始め、皇后宮を経て太子宮にまで至り、ついに偶人を発見した<ref>『漢書』巻6 武帝紀第6:“秋七月,按道侯韓說、使者江充等掘蠱太子宮。”</ref><ref>『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛,有與亡,莫敢訟其冤者。充既知上意,因言宮中有蠱氣,先治後宮希幸夫人,以次及皇后,遂掘蠱於太子宮,得桐木人。”</ref><ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“充典治巫蠱,既知上意,白言宮中有蠱氣,入宮至省中,壞御座掘地。上使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充遂至太子宮掘蠱,得桐木人。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛;有與無,莫敢訟其冤者。充旣知上意,因胡巫檀何言:「宮中有蠱氣;不除之,上終不差。」上乃使充入宮,至省中,壞御座,掘地求蠱;又使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充先治後宮希幸夫人,以次及皇后、太子宮,掘地縱橫,太子、皇后無復施牀處。充云:「於太子宮得木人尤多,又有帛書,所言不道;當奏聞。」”</ref>。驚愕した衛太子は[[太子少傅]]の石徳([[石慶]]の子)に問うたが、連座して誅せられることを恐れた石徳は[[秦]]の[[扶蘇]]を引き合いに出し、武帝の使者を騙ってでも江充を捕えてその陰謀を暴くように勧めた。衛太子は初め逡巡したが、衛太子を捕えようとする江充の動きが速かったため、結局は石徳の言に従った<ref>『漢書』巻63 武五子伝第33:“時上疾,辟暑甘泉宮,獨皇后、太子在。太子召問少傅石德,德懼為師傅并誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衛氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明,可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報,上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事耶?」太子急,然德言。”</ref><ref>『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子懼,問少傅石德。德懼為師傅幷誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衞氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明。可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報;上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事邪!」太子曰:「吾人子,安得擅誅!不如歸謝,幸得無罪。」太子將往之甘泉,而江充持太子甚急;太子計不知所出,遂從石德計。”</ref>。 |
2020年8月24日 (月) 09:48時点における版
巫蠱の禍(ふこのか)は、前漢の征和2年(紀元前91年)、武帝の治世末期に起きた事件である。巫蠱の獄(ふこのごく)、巫蠱の乱(ふこのらん)とも言う。
巫蠱と呼ばれる呪術を巡って前漢の都長安が混乱に陥り、ついに皇太子の劉拠が挙兵するに至った。徐衛民と劉江偉によれば、巫蠱の禍は前漢中期に増大していた社会矛盾の噴出であり、武帝時代の政治に重大な影響を及ぼしたという[1]。なお、呂思勉は事件の記述に胡巫(胡の巫)が現れることを根拠として、巫蠱は中国に元来あったものではなく匈奴などの外国からもたらされたのではないかとする[2]。匈奴には敵軍の通り道に牛や羊を埋めて呪詛する習慣があったといい、この事件で行われた偶人(木製の人形)を地中に埋めるという手法がそれと関係する可能性はある[3]。
経過
征和元年(紀元前92年)夏、武帝が建章宮にいた際、一人の男が帯剣して中竜華門に入るのを見た。武帝は男を異人ではないかと疑ってこれを捕えるよう命じたが、男は剣を捨てて逃げ、捕えることができなかった。武帝は怒って門候(城門の役人)を処刑した[4]。冬11月、三輔の騎士を動員して上林苑を捜索した。捜索のために長安の城門も閉じられ、11日後にようやく解かれた。この頃、巫蠱の禍が始まった[5][6]。
公孫賀は夫人が衛皇后の姉であったために重用され、太僕を経て丞相に引き立てられていた[7][8]。子の公孫敬声は父に代わって太僕となったが、皇后の甥であることを笠に着て驕奢の振る舞いが多く、北軍の軍費を横領したことが発覚して投獄された[9][10]。公孫賀は、陽陵の大侠客として知られた朱安世という者を捕え、それと引き換えに公孫敬声の罪を除こうとした。ところが捕えられた朱安世は「丞相の災いは皇族にまで及ぶぞ。南山の竹を全て使っても俺の自白を書き留めるのに足らず、斜谷の木を全て使っても俺の手かせ足かせを作るのに足らないだろうよ」と笑った。そして獄中から、公孫敬声が陽石公主(武帝の娘)と密通していること、甘泉宮(離宮)への道に偶人を埋めて武帝を呪っていることを告発したのである[11][12]。
征和2年春正月、公孫賀も投獄されて公孫敬声とともに獄死、一族はみな誅せられた[13][14][15]。代わって中山靖王の子で涿郡太守の劉屈氂が丞相を拝命した[16][17]。夏閏4月には武帝の娘である諸邑公主と陽石公主、衛皇后の甥で衛青の子である長平侯衛伉が誅せられた[18][19][20]。その頃、武帝は甘泉宮へ行幸した[21][22]。武帝が甘泉宮で病床に臥せっていることを知った江充は、太子劉拠(衛皇后の子、衛太子と称される)や衛皇后に憎まれていたことから老齢の武帝が崩御した後に誅せられるのを恐れ、皇帝の病は巫蠱によるものと奏上し、巫蠱の摘発を命ぜられる[23][24][25]。江充は胡巫を率い、地面を掘り返して偶人を捜索し、呪い師の類いを捕えては証拠をでっちあげ、拷問にかけて自白させた。人々はお互いに巫蠱の罪で誣告しあい、連座して死ぬ者は数万人に及んだという[26][27]。
年老いた武帝は左右の臣下がみな巫蠱により自分を呪っているのではないかと疑い、その事実の有無にかかわらずあえて冤罪を訴えようとする者もいなかった。江充はこれに付け入り、宮中の蠱気を除かねば武帝の快癒はないと胡巫の檀何という者に言上させ、按道侯韓説、御史の章贛、黄門の蘇文らとともに宮中を捜索した。後宮で寵愛を受けていない夫人から捜索を始め、皇后宮を経て太子宮にまで至り、ついに偶人を発見した[28][29][30][31]。驚愕した衛太子は太子少傅の石徳(石慶の子)に問うたが、連座して誅せられることを恐れた石徳は秦の扶蘇を引き合いに出し、武帝の使者を騙ってでも江充を捕えてその陰謀を暴くように勧めた。衛太子は初め逡巡したが、衛太子を捕えようとする江充の動きが速かったため、結局は石徳の言に従った[32][33]。
秋7月、衛太子の食客が武帝の使者を騙って江充らを捕えた。韓説は偽使を疑い従わなかったのでその場で殺され、章贛は傷を負って後に死んだ。衛太子は「趙の下郎め、前に趙王父子を乱したのに飽き足らず、さらにまた我が父子を乱そうというのか!」と江充を罵って斬った。江充は趙国邯鄲の生まれであり、趙国の太子の罪を暴いたことがあったのである。また、胡巫も上林苑の中で焼き殺された。その夜、衛太子は舎人の無且に節(皇帝の旗)を持たせて未央宮へ入り、長御(女官)の倚華を通じて衛皇后にことの次第を伝えるとともに、中厩の車や長楽宮の衛兵を動員し、武庫から兵器を運び出した[34][35][36]。
甘泉宮へ逃げ帰った蘇文は武帝に衛太子の謀反を訴えた。武帝はそれでも謀反とは断定せず、使者を送って衛太子を召し出すことにした。ところが使者はあえて衛太子のもとには行かず、殺されそうになったということにして甘泉宮へ帰ってきたので、武帝は謀反を真実と思い激怒した[37]。劉屈氂は丞相府から身体一つで逃げ出したために印綬すら紛失する有様だったが、武帝のもとへ長史を急使として送った。そこで劉屈氂が事件を公にせず、未だに兵を動かしていないことを知った武帝は「事態は急を争うのだから、公にすべきである。丞相は周公旦の風格を備えていない。周公は管叔鮮と蔡叔度を討伐して見せたぞ!」と叱責。劉屈氂に璽書を与え、牛車を横たえて盾とすること、短兵を交えず(接近戦を行わず)死傷者をなるべく少なくすること、城門を閉じて謀反人を逃がさないようにすることなどを指示した[38][39]。
衛太子は「陛下は甘泉宮で病床に臥しておられるというが、何事かが起こったのであろう。姦臣はそれに乗じて乱を起こそうとしたのだ」と百官に告げたが、武帝は甘泉宮から長安城西の建章宮に移り、三輔近県の兵を動員して劉屈氂にこれを率いさせた[40][41]。衛太子は制(皇帝の命令)と偽って中都官の囚人を解き放ち、兵器を与えて少傅の石徳と賓客の張光に率いさせるとともに、囚人の如侯に節を持たせて長水・宣曲に駐屯していた胡騎(胡人の騎兵)を長安に呼び寄せようとした。ところが偶然にも侍郎の馬通が如侯を捕え、如侯が偽使であることを胡騎に示した。馬通は如侯を斬り胡騎を率いて長安へ向かったが、さらに楫棹の士、すなわち楫(かじ)と棹(さお)とで操船する水夫を動員して大鴻臚の商丘成に委ねた[42][43]。なお、当時漢が用いていた節(旗)は赤色だったが、衛太子の側が赤色の節を用いたので、区別するために黄色の旄(旗飾り)をその上へ付け加えることになった[44][45][46]。
衛太子は北軍の兵を動員するため、護北軍使者の任安を召し出して節を与えた。しかし任安は節を拝受した後に陣営の門を閉じて動かなかった。北軍の動員を諦めた衛太子は長安9市のうち4市から兵を駆り集め、数万の軍勢になった。長楽宮の西の闕下で劉屈氂の軍勢と遭遇し、5日間に渡る戦闘で長安の溝渠は血に染まった。しかし謀反人とされた衛太子に味方するものは少なく、劉屈氂の軍勢がやや数で優ったため、衛太子はついに敗れて南の覆盎城門へ奔った[47][48]。この門を守っていた司直の田仁は同情して見逃したので、衛太子は城外へ脱出した[49][50]。
衛太子の捜索が続く間、壺関県の三老の茂(姓は令狐あるいは鄭)という者が上書して衛太子に対する寛恕を願った。武帝はこれに深く心を動かされたが、未だ衛太子を赦免することはできなかった[51][52]。衛太子は湖県の泉鳩里という所に落ち延びていたが、金策のために知人に使者を送ったことから発覚した。8月、追っ手に隠れ家を取り囲まれ、最早逃げられないことを悟った衛太子は部屋にこもり縊死した。山陽県出身の張富昌という兵士が戸を蹴破り、新安県の令史の李寿が駆け込んで衛太子を抱え下ろしたが、すでに手遅れであった。衛太子を匿っていた隠れ家の主人は戦って死に、皇孫(武帝の孫すなわち衛太子の子)2人も殺された[53][54][55]。
結果
衛太子が敗退した後、衛皇后のもとへ宗正の劉長楽と執金吾の劉敢が遣わされ、衛皇后は自殺した。遺体は小さな棺に納めて長安の南の桐柏に葬られた。衛氏もまたことごとく誅せられた[56][57][58]。衛太子には3男1女があったが、この事件でみな死んだ。太子良娣(妃に次ぐ地位にある妻)の史氏は衛皇后とともに桐柏に葬られた。衛太子と史氏の子劉進(史皇孫と称される)はその夫人王氏や娘とともに広明に葬られ、劉進の弟2人は衛太子とともに湖県に葬られた[59][60]。劉進と王氏の子である劉病已(後の宣帝)のみは生後間もなかったため殺されずに済んだ[61][62]。
賓客として太子宮に出入りしていた者は誅せられ、衛太子とともに戦った者は族誅、衛太子に心ならずも従った者は敦煌郡に移された[63][64]。劉屈氂は太子を見逃した田仁を処刑しようとしたが、御史大夫の暴勝之は武帝の裁可を得ないうちに田仁を処刑することへ反対した。武帝はこれを知って「田仁は司直でありながら謀反人を見逃したのだから、丞相がこれを斬ろうとするのは法に則っている。なぜ御史大夫は勝手に止めたのか」と激怒し、暴勝之は恐れて自殺した[65][66]。田仁、そして衛太子の節を拝受しながら動かなかったため二心を抱くものとされた任安は、ともに腰斬となった[67][68]。馬通が如侯を捕えた功により重合侯に、景建が石徳を捕えた功により徳侯に、商丘成が張光を捕えた功により秺侯にそれぞれ列侯された[69][70]。また、衛太子を追捕した功により李寿が邘侯に、張富昌が題侯に列侯された[71][72]。
後日
巫蠱の密告を調べてみるとその多くは冤罪であったので、武帝は衛太子に謀反の意志がなかったことを悟った。征和3年(紀元前90年)秋頃、たまたま高寝郎(高祖劉邦の廟を管理する役)の田千秋という者が上書して衛太子の冤罪を訴えた。これに改めて心を動かされた武帝は召し出した田千秋を直ちに大鴻臚へ任命、数か月後には丞相へ昇格させた。江充の一族は誅せられ、蘇文は横門の橋上で焼き殺された。また、泉鳩里で衛太子に刃を向けた者も北地郡の太守となっていたが、一族みな誅せられた。武帝は無実の衛太子のために湖県に思子宮という宮殿を建て、帰来望思の台を設けた。人々はこれを聞いて涙した[73][74]。
鎮定に功のあった者たちもほとんどが後元元年(紀元前88年)までになんらかの理由で地位を失った。征和3年には夫人が巫蠱を行ったとして丞相劉屈氂が腰斬[75][76][77]、劉屈氂の事件を受けて弐師将軍李広利は匈奴へ降伏し[78][79]、李広利と関係があった邘侯李寿も誅殺された[80][81]。後元元年には重合侯馬通がその兄の馬何羅とともに謀反して腰斬となり[82][83]、徳侯景建も馬通に連座して腰斬[84]、秺侯商丘成は不敬があって自殺[85][86][87]、題侯張富昌は何者かに殺害された[88]。
後元2年(紀元前87年)春2月、武帝は病床に臥し、末子である劉弗陵が立太子された[89][90]。武帝はまもなく病死し、劉弗陵が即位して昭帝となる[91][92]。昭帝の在世中である始元5年(紀元前82年)、長安に劉拠を自称する男が現れた。男が今は亡き衛太子にあまりにも似ているため群臣は何も言い出せなかったが、京兆尹の雋不疑はすぐさま男を捕えさせた。調べてみると実際には夏陽県に生まれて湖県で占い師をしている張延年あるいは成方遂という者であり、男は腰斬となった[93][94][95]。
その後曲折を経て、劉進の子つまり劉拠の孫である劉病已が即位して宣帝となったのは、実に巫蠱の禍から20年近くを経た元平元年(紀元前74年)のことである[96]。宣帝は即位後、自らの祖父母や父母の汚名を雪ぎ、劉拠には戾、劉進には悼を諡して、みな改葬した[97][98]。
脚注
- ^ 徐 & 刘 2011, p. 22.
- ^ 藤田 2003, p. 30.
- ^ 藤田 2003, pp. 37–38.
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上居建章宮,見一男子帶劍入中龍華門,疑其異人,命收之。男子捐劍走,逐之弗獲。上怒,斬門候。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“冬十一月,發三輔騎士大搜上林,閉長安城門索,十一日乃解。巫蠱起。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“冬,十一月,發三輔騎士大搜上林,閉長安城門索;十一日乃解。巫蠱始起。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀夫人君孺,衛皇后姊也,賀由是有寵。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“丞相公孫賀夫人君孺,衞皇后姊也,賀由是有寵。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“賀子敬聲,代賀為太僕,父子並居公卿位。敬聲以皇后姊子,驕奢不奉法,征和中擅用北軍錢千九百萬,發覺,下獄。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“賀子敬聲代父為太僕,驕奢不奉法,擅用北軍錢千九百萬;發覺,下獄。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“是時詔捕陽陵朱安世不能得,上求之急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。安世者,京師大俠也,聞賀欲以贖子,笑曰:「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭,斜谷之木不足為我械。」安世遂從獄中上書,告敬聲與陽石公主私通,及使人巫祭祠詛上,且上甘泉當馳道埋偶人,祝詛有惡言。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時詔捕陽陵大俠朱安世甚急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪,上許之。後果得安世。安世笑曰:「丞相禍及宗矣!」遂從獄中上書,告「敬聲與陽石公主私通;上且上甘泉,使巫當馳道埋偶人,祝詛上,有惡言。」”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“二年春正月,丞相賀下獄死。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“下有司案驗賀,窮治所犯,遂父子死獄中,家族。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“春,正月,下賀獄,案驗;父子死獄中,家族。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“劉屈氂,武帝庶兄中山靖王子也,不知其始所以進。征和二年春,制詔御史:「故丞相賀倚舊故乘高勢而為邪,興美田以利子弟賓客,不顧元元,無益邊穀,貨賂上流,朕忍之久矣。終不自革,乃以邊為援,使內郡自省作車,又令耕者自轉,以困農煩擾畜者,重馬傷秏,武備衰減;下吏妄賦,百姓流亡;又詐為詔書,以姦傳朱安世。獄已正於理。其以涿郡太守屈氂為左丞相,分丞相長史為兩府,以待天下遠方之選。夫親親任賢,周唐之道也。以澎戶二千二百封左丞相為澎侯。」”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“以涿郡太守劉屈氂為丞相,封澎侯。屈氂,中山靖王子也。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“閏月,諸邑公主、陽石公主皆坐巫蠱死。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“丞相公孫賀父子,陽石、諸邑公主,及皇后弟子長平侯衛伉皆坐誅。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“閏月,諸邑公主、陽石公主及皇后弟子長平侯伉皆坐巫蠱誅。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“夏,行幸甘泉。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上行幸甘泉。”
- ^ 『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“後上幸甘泉,疾病,充見上年老,恐晏駕後為太子所誅,因是為姦,奏言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者治巫蠱。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“充與太子及衛氏有隙,恐上晏駕後為太子所誅,會巫蠱事起,充因此為姦。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“江充自以與太子及衞氏有隙,見上年老,恐晏駕後為太子所誅,因是為姦,言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者,治巫蠱獄。”
- ^ 『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“充將胡巫掘地求偶人,捕蠱及夜祠,視鬼,染汙令有處,輒收捕驗治,燒鐵鉗灼,強服之。民轉相誣以巫蠱,吏輒劾以大逆亡道,坐而死者前後數萬人。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“充將胡巫掘地求偶人,捕蠱及夜祠、視鬼,染汙令有處,輒收捕驗治,燒鐵鉗灼,強服之。民轉相誣以巫蠱,吏輒劾以為大逆無道;自京師、三輔連及郡、國,坐而死者前後數萬人。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“秋七月,按道侯韓說、使者江充等掘蠱太子宮。”
- ^ 『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛,有與亡,莫敢訟其冤者。充既知上意,因言宮中有蠱氣,先治後宮希幸夫人,以次及皇后,遂掘蠱於太子宮,得桐木人。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“充典治巫蠱,既知上意,白言宮中有蠱氣,入宮至省中,壞御座掘地。上使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充遂至太子宮掘蠱,得桐木人。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛;有與無,莫敢訟其冤者。充旣知上意,因胡巫檀何言:「宮中有蠱氣;不除之,上終不差。」上乃使充入宮,至省中,壞御座,掘地求蠱;又使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充先治後宮希幸夫人,以次及皇后、太子宮,掘地縱橫,太子、皇后無復施牀處。充云:「於太子宮得木人尤多,又有帛書,所言不道;當奏聞。」”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“時上疾,辟暑甘泉宮,獨皇后、太子在。太子召問少傅石德,德懼為師傅并誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衛氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明,可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報,上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事耶?」太子急,然德言。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子懼,問少傅石德。德懼為師傅幷誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衞氏皆坐此,今巫與使者掘地得徵驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明。可矯以節收捕充等繫獄,窮治其姦詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報;上存亡未可知,而姦臣如此,太子將不念秦扶蘇事邪!」太子曰:「吾人子,安得擅誅!不如歸謝,幸得無罪。」太子將往之甘泉,而江充持太子甚急;太子計不知所出,遂從石德計。”
- ^ 『漢書』巻45 蒯伍江息夫伝第15:“江充字次倩,趙國邯鄲人也。充本名齊,有女弟善鼓琴歌舞,嫁之趙太子丹。齊得幸於敬肅王,為上客。久之,太子疑齊以己陰私告王,與齊忤,使吏逐捕齊,不得,收繫其父兄,按驗,皆棄市。齊遂絕跡亡,西入關,更名充。詣闕告太子丹與同產姊及王後宮姦亂,交通郡國豪猾,攻剽為姦,吏不能禁。書奏,天子怒,遣使者詔郡發吏卒圍趙王宮,收捕太子丹,移繫魏郡詔獄,與廷尉雜治,法至死。趙王彭祖,帝異母兄也,上書訟太子罪,言「充逋逃小臣,苟為姦訛,激怒聖朝,欲取必於萬乘以復私怨。後雖亨醢,計猶不悔。臣願選從趙國勇敢士,從軍擊匈奴,極盡死力,以贖丹罪。」上不許,竟敗趙太子。初,充召見犬臺宮,自請願以所常被服冠見上。上許之。充衣紗縠襌衣,曲裾後垂交輸,冠襌纚步搖冠,飛翮之纓。充為人魁岸,容貌甚壯。帝望見而異之,謂左右曰:「燕趙固多奇士。」既至前,問以當世政事,上說之。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“征和二年七月壬午,乃使客為使者收捕充等。按道侯說疑使者有詐,不肯受詔,客格殺說。御史章贛被創突亡,自歸甘泉。太子使舍人無且持節夜入未央宮殿長秋門,因長御倚華具白皇后,發中廏車載射士,出武庫兵,發長樂宮衛,告令百官曰江充反。乃斬充以徇,炙胡巫上林中。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“秋,七月,壬午,太子使客詐為使者,收捕充等;按道侯說疑使者有詐,不肯受詔,客格殺說。太子自臨斬充,罵曰:「趙虜!前亂乃國王父子不足邪!乃復亂吾父子也!」又炙胡巫上林中。太子使舍人無且持節夜入未央宮殿長秋門,因長御倚華具白皇后,發中廏車載射士,出武庫兵,發長樂宮衞卒。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“蘇文迸走,得亡歸甘泉,說太子無狀。上曰:「太子必懼,又忿充等,故有此變。」乃使使召太子。使者不敢進,歸報云:「太子反已成,欲斬臣,臣逃歸。」上大怒。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“其秋,戾太子為江充所譖,殺充,發兵入丞相府,屈氂挺身逃,亡其印綬。是時上避暑在甘泉宮,丞相長史乘疾置以聞。上問「丞相何為?」對曰:「丞相祕之,未敢發兵。」上怒曰:「事籍籍如此,何謂祕也?丞相無周公之風矣。周公不誅管蔡乎?」乃賜丞相璽書曰:「捕斬反省,自有賞罰。以牛車為櫓,毋接短兵,多殺傷士眾。堅閉城門,毋令反者得出。」”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“丞相屈氂聞變,挺身逃,亡其印綬,使長史乘疾置以聞。上問:「丞相何為?」對曰:「丞相祕之,未敢發兵。」上怒曰:「事籍籍如此,何謂祕也!丞相無周公之風矣,周公不誅管、蔡乎!」乃賜丞相璽書曰:「捕斬反者,自有賞罰。以牛車為櫓,毋接短兵,多殺傷士衆!堅閉城門,毋令反者得出!」”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“太子既誅充發兵,宣言帝在甘泉病困,疑有變,姦臣欲作亂。上於是從甘泉來,幸城西建章宮,詔發三輔近縣兵,部中二千石以下,丞相兼將。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子宣言告令百官云:「帝在甘泉病困,疑有變;姦臣欲作亂。」上於是從甘泉來,幸城西建章宮,詔發三輔近縣兵,部中二千石以下,丞相兼將之。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“太子亦遣使者撟制赦長安中都官囚徒,發武庫兵,命少傅石德及賓客張光等分將,使長安囚如侯持節發長水及宣曲胡騎,皆以裝會。侍郎莽通使長安,因追捕如侯,告胡人曰:「節有詐,勿聽也。」遂斬如侯,引騎入長安,又發輯濯士,以予大鴻臚商丘成。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子亦遣使者矯制赦長安中都官囚徒,命少傅石德及賓客張光等分將;使長安囚如侯持節發長水及宣曲胡騎,皆以裝會。侍郎馬通使長安,因追捕如侯,告胡人曰:「節有詐,勿聽也!」遂斬如侯,引騎入長安;又發楫棹士以予大鴻臚商丘成。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“更節加黃旄。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“初,漢節純赤,以太子持赤節,故更為黃旄加上以相別。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“初,漢節純赤;以太子持赤節,故更為黃旄加上以相別。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“太子召監北軍使者任安發北軍兵,安受節已閉軍門,不肯應太子。太子引兵去,敺四市人凡數萬眾,至長樂西闕下,逢丞相軍,合戰五日,死者數萬人,血流入溝中。丞相附兵浸多,太子軍敗,南奔覆盎城門,得出。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子立車北軍南門外,召護北軍使者任安,與節,令發兵。安拜受節;入,閉門不出。太子引兵去,敺四市人凡數萬衆,至長樂西闕下,逢丞相軍,合戰五日,死者數萬人,血流入溝中。民間皆云「太子反」,以故衆不附太子,丞相附兵寖多。庚寅,太子兵敗,南奔覆盎城門。”
- ^ 『史記』巻104 田叔列伝第44:“數歲,坐太子事。時左相自將兵,令司直田仁主閉守城門,坐縱太子,下吏誅死。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“司直田仁部閉城門,以為太子父子之親,不欲急之,太子由是得出亡。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“上怒甚,群下憂懼,不知所出。壺關三老茂上書曰:「臣聞父者猶天,母者猶地,子猶萬物也。故天平地安,陰陽和調,物乃茂成;父慈母愛室家之中,子乃孝順。陰陽不和則萬物夭傷,父子不和則室家喪亡。故父不父則子不子,君不君則臣不臣,雖有粟,吾豈得而食諸!昔者虞舜,孝之至也,而不中於瞽叟;孝己被謗,伯奇放流,骨肉至親,父子相疑。何者?積毀之所生也。由是觀之,子無不孝,而父有不察。今皇太子為漢適嗣,承萬世之業,體祖宗之重,親則皇帝之宗子也。江充,布衣之人,閭閻之隸臣耳,陛下顯而用之,銜至尊之命以迫蹴皇太子,造飾姦詐,群邪錯謬,是以親戚之路鬲塞而不通。太子進則不得上見,退則困於亂臣,獨冤結而亡告,不忍忿忿之心,起而殺充,恐懼逋逃,子盜父兵以救難自免耳,臣竊以為無邪心。詩云:『營營青蠅,止于藩;愷悌君子,無信讒言;讒言罔極,交亂四國。』往者江充讒殺趙太子,天下莫不聞,其罪固宜。陛下不省察,深過太子,發盛怒,舉大兵而求之,三公自將,智者不敢言,辯士不敢說,臣竊痛之。臣聞子胥盡忠而忘其號,比干盡仁而遺其身,忠臣竭誠不顧鈇鉞之誅以陳其愚,志在匡君安社稷也。詩云:『取彼譖人,投畀豺虎。』唯陛下寬心慰意,少察所親,毋患太子之非,亟罷甲兵,無令太子久亡。臣不勝惓惓,出一旦之命,待罪建章闕下。」書奏,天子感寤。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上怒甚,羣下憂懼,不知所出。壺關三老茂上書曰:「臣聞父者猶天,母者猶地,子猶萬物也,故天平,地安,物乃茂成;父慈,母愛,子乃孝順。今皇太子為漢適嗣,承萬世之業,體祖宗之重,親則皇帝之宗子也。江充,布衣之人,閭閻之隸臣耳;陛下顯而用之,銜至尊之命以迫蹴皇太子,造飾姦詐,羣邪錯繆,是以親戚之路鬲塞而不通。太子進則不得見上,退則困於亂臣,獨冤結而無告,不忍忿忿之心,起而殺充,恐懼逋逃,子盜父兵,以救難自免耳;臣竊以為無邪心。詩曰:『營營青蠅,止于藩。愷悌君子,無信讒言。讒言罔極,交亂四國。』往者江充讒殺趙太子,天下莫不聞。陛下不省察,深過太子,發盛怒,舉大兵而求之,三公自將;智者不敢言,辯士不敢說,臣竊痛之!唯陛下寬心慰意,少察所親,毋患太子之非,亟罷甲兵,無令太子久亡!臣不勝惓惓,出一旦之命,待罪建章宮下!」書奏,天子感寤,然尚未敢顯言赦之也。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“八月辛亥,太子自殺于湖。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“太子之亡也,東至湖,臧匿泉鳩里。主人家貧,常賣屨以給太子。太子有故人在湖,聞其富贍,使人呼之而發覺。吏圍捕太子,太子自度不得脫,即入室距戶自經。山陽男子張富昌為卒,足蹋開戶,新安令史李壽趨抱解太子,主人公遂格鬥死,皇孫二人皆并遇害。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“太子亡,東至湖,藏匿泉鳩里;主人家貧,常賣屨以給太子。太子有故人在湖,聞其富贍,使人呼之而發覺。八月,辛亥。吏圍捕太子。太子自度不得脫,卽入室距戶自經。山陽男子張富昌為卒,足蹋開戶,新安令史李壽趨抱解太子,主人公遂格鬬死,皇孫二人幷皆遇害。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“庚寅,太子亡,皇后自殺。”
- ^ 『漢書』巻97上 外戚伝第67上:“詔遣宗正劉長樂、執金吾劉敢奉策收皇后璽綬,自殺。黃門蘇文、姚定漢輿置公車令空舍,盛以小棺,瘞之城南桐柏。衛氏悉滅。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“詔遣宗正劉長、執金吾劉敢奉策收皇后璽綬,后自殺。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“初,太子有三男一女,女者平輿侯嗣子尚焉。及太子敗,皆同時遇害。衛后、史良娣葬長安城南。史皇孫、皇孫妃王夫人及皇女孫葬廣明。皇孫二人隨太子者,與太子并葬湖。”
- ^ 『漢書』巻97上 外戚伝第67上:“武帝末,巫蠱事起,衛太子及良娣、史皇孫皆遭害。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“太子有遺孫一人,史皇孫子,王夫人男,年十八即尊位,是為孝宣帝。”
- ^ 『漢書』巻8 宣帝紀第8:“孝宣皇帝,武帝曾孫,戾太子孫也。太子納史良娣,生史皇孫。皇孫納王夫人,生宣帝,號曰皇曾孫。生數月,遭巫蠱事,太子、良娣、皇孫、王夫人皆遇害。語在太子傳。曾孫雖在襁褓,猶坐收繫郡邸獄。而邴吉為廷尉監,治巫蠱於郡邸,憐曾孫之亡辜,使女徒復作淮陽趙徵卿、渭城胡組更乳養,私給衣食,視遇甚有恩。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“諸太子賓客,嘗出入宮門,皆坐誅。其隨太子發兵,以反法族。吏士劫略者,皆徙敦煌郡。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“諸太子賓客嘗出入宮門,皆坐誅;其隨太子發兵,以反法族;吏士劫略者皆徙敦煌郡。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“會夜司直田仁部閉城門,坐令太子得出,丞相欲斬仁。御史大夫暴勝之謂丞相曰:「司直,吏二千石,當先請,柰何擅斬之。」丞相釋仁。上聞而大怒,下吏責問御史大夫曰:「司直縱反者,丞相斬之,法也,大夫何以擅止之?」勝之皇恐,自殺。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“丞相欲斬仁,御史大夫暴勝之謂丞相曰:「司直,吏二千石,當先請,柰何擅斬之!」丞相釋仁。上聞而大怒,下吏責問御史大夫曰:「司直縱反者,丞相斬之,法也;大夫何以擅止之?」勝之惶恐,自殺。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“及北軍使者任安,坐受太子節,懷二心,司直田仁縱太子,皆要斬。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上以為任安老吏,見兵事起,欲坐觀成敗,見勝者合從之,有兩心,與田仁皆要斬。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“上曰:「侍郎莽通獲反將如侯,長安男子景建從通獲少傅石德,可謂元功矣。大鴻臚商丘成力戰獲反將張光。其封通為重合侯,建為德侯,成為秺侯。」”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上以馬通獲如侯,長安男子景建從通獲石德,商丘成力戰獲張光,封通為重合侯,建為德侯,成為秺侯。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“上既傷太子,乃下詔曰:「蓋行疑賞,所以申信也。其封李壽為邘侯,張富昌為題侯。」”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“上旣傷太子,乃封李壽為邘侯,張富昌為題侯。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“車千秋,本姓田氏,其先齊諸田徙長陵。千秋為高寑郎。會衛太子為江充所譖敗,久之,千秋上急變訟太子冤,曰:「子弄父兵,罪當笞;天子之子過誤殺人,當何罪哉!臣嘗夢見一白頭翁教臣言。」是時,上頗知太子惶恐無他意,乃大感寤,召見千秋。至前,千秋長八尺餘,體貌甚麗,武帝見而說之,謂曰:「父子之間,人所難言也,公獨明其不然。此高廟神靈使公教我,公當遂為吾輔佐。」立拜千秋為大鴻臚。數月,遂代劉屈氂為丞相,封富民侯。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“吏民以巫蠱相告言者,案驗多不實。上頗知太子惶恐無他意,會高寢郎田千秋上急變,訟太子冤曰:「子弄父兵,罪當笞。天子之子過誤殺人,當何罪哉!臣嘗夢一白頭翁敎臣言。」上乃大感寤,召見千秋,謂曰:「父子之間,人所難言也,公獨明其不然。此高廟神靈使公敎我,公當遂為吾輔佐。」立拜千秋為大鴻臚,而族滅江充家,焚蘇文於橫橋上,及泉鳩里加兵刃於太子者,初為北地太守,後族。上憐太子無辜,乃作思子宮,為歸來望思之臺於湖,天下聞而悲之。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“六月,丞相屈氂下獄要斬,妻梟首。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“其明年,貳師將軍李廣利將兵出擊匈奴,丞相為祖道,送至渭橋,與廣利辭決。廣利曰:「願君侯早請昌邑王為太子。如立為帝,君侯長何憂乎?」屈氂許諾。昌邑王者,貳師將軍女弟李夫人子也。貳師女為屈氂子妻,故共欲立焉。是時治巫蠱獄急,內者令郭穰告丞相夫人以丞相數有譴,使巫祠社,祝詛主上,有惡言,及與貳師共禱祠,欲令昌邑王為帝。有司奏請案驗,罪至大逆不道。有詔載屈氂廚車以徇,要斬東市,妻子梟首華陽街。貳師將軍妻子亦收。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“初,貳師之出也,丞相劉屈氂為祖道,送至渭橋。廣利曰:「願君侯早請昌邑王為太子;如立為帝,君侯長何憂乎!」屈氂許諾。昌邑王者,貳師將軍女弟李夫人子也;貳師女為屈氂子妻,故共欲立焉。會內者令郭穰告「丞相夫人祝詛上及與貳師共禱祠,欲令昌邑王為帝」,按驗,罪至大逆不道。六月,詔載屈氂廚車以徇,要斬東市,妻子梟首華陽街;貳師妻子亦收。”
- ^ 『漢書』巻66 公孫劉田王楊蔡陳鄭伝第36:“貳師聞之,降匈奴,宗族遂滅。”
- ^ 『資治通鑑』巻22 漢紀第14:“貳師聞之,憂懼,其掾胡亞夫亦避罪從軍,說貳師曰:「夫人、室家皆在吏,若還,不稱意適與獄會,郅居以北,可復得見乎!」貳師由是狐疑,深入要功,遂北至郅居水上。虜已去,貳師遣護軍將二萬騎度郅居之水,逢左賢王、左大將將二萬騎,與漢軍合戰一日,漢軍殺左大將,虜死傷甚衆。軍長史與決眭都尉煇渠侯謀曰:「將軍懷異心,欲危衆求功,恐必敗。」謀共執貳師。貳師聞之,斬長史,引兵還至燕然山。單于知漢軍勞倦,自將五萬騎遮擊貳師,相殺傷甚衆;夜,塹漢軍前,深數尺,從後急擊之,軍大亂;貳師遂降。單于素知其漢大將,以女妻之,尊寵在衞律上。宗族遂滅。”
- ^ 『漢書』巻17 景武昭宣元成功臣表第5:“九月封,三年,坐為衛尉居守,擅出長安界,送海西侯至高橋,又使吏謀殺方士,不道,誅。”
- ^ 『漢書』巻19下 百官公卿表第7下:“邗侯李壽為衛尉,坐居守擅出長安界使吏殺人下獄死。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“侍中僕射莽何羅與弟重合侯通謀反,侍中駙馬都尉金日磾、奉車都尉霍光、騎都尉上官桀討之。”
- ^ 『漢書』巻17 景武昭宣元成功臣表第5:“七月癸巳封,四年,後二年,坐發兵與衛尉潰等謀反,要斬。”
- ^ 『漢書』巻17 景武昭宣元成功臣表第5:“七月癸巳封,四年,後二年,坐共莽通謀反,要斬。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“夏六月,御史大夫商丘成有罪自殺。”
- ^ 『漢書』巻17 景武昭宣元成功臣表第5:“延和二年七月癸巳封,四年,後二年,坐為詹事侍祠孝文廟,醉歌堂下曰「出居,安能鬱鬱」,大不敬,自殺。”
- ^ 『漢書』巻19下 百官公卿表第7下:“九月大鴻臚商丘成為御史大夫,四年坐祝詛自殺。”
- ^ 『漢書』巻17 景武昭宣元成功臣表第5:“九月封,四年,後二年四月甲戌,為人所賊殺。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“乙丑,立皇子弗陵為皇太子。”
- ^ 『漢書』巻7 昭帝紀第7:“孝昭皇帝,武帝少子也。母曰趙婕妤,本以有奇異得幸,及生帝,亦奇異。語在外戚傳。武帝末,戾太子敗,燕王旦、廣陵王胥行驕嫚,後元二年二月上疾病,遂立昭帝為太子,年八歲。”
- ^ 『漢書』巻6 武帝紀第6:“丁卯,帝崩于五柞宮,入殯于未央宮前殿。三月甲申,葬茂陵。”
- ^ 『漢書』巻7 昭帝紀第7:“明日,武帝崩。戊辰,太子即皇帝位,謁高廟。”
- ^ 『漢書』巻7 昭帝紀第7:“夏陽男子張延年詣北闕,自稱衛太子,誣罔,要斬。”
- ^ 『漢書』巻71 雋疏于薛平彭伝第41:“始元五年,有一男子乘黃犢車,建黃旐,衣黃襜褕,著黃冒,詣北闕,自謂衛太子。公車以聞,詔使公卿將軍中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下,以備非常。丞相御史中二千石至者並莫敢發言。京兆尹不疑後到,叱從吏收縛。或曰:「是非未可知,且安之。」不疑曰:「諸君何患於衛太子!昔蒯聵違命出奔,輒距而不納,春秋是之。衛太子得罪先帝,亡不即死,今來自詣,此罪人也。」遂送詔獄。天子與大將軍霍光聞而嘉之,曰:「公卿大臣當用經術明於大誼。」繇是名聲重於朝廷,在位者皆自以不及也。大將軍光欲以女妻之,不疑固辭,不肯當。久之,以病免,終於家。京師紀之。後趙廣漢為京兆尹,言「我禁姦止邪,行於吏民,至於朝廷事,不及不疑遠甚。」廷尉驗治何人,竟得姦詐。本夏陽人,姓成名方遂,居湖,以卜筮為事。有故太子舍人嘗從方遂卜,謂曰:「子狀貌甚似衛太子。」方遂心利其言,幾得以富貴,即詐自稱詣闕。廷尉逮召鄉里識知者張宗祿等,方遂坐誣罔不道,要斬東市。一云姓張名延年。”
- ^ 『資治通鑑』巻23 漢紀第15:“有男子乘黃犢車詣北闕,自謂衞太子;公車以聞。詔使公、卿、將軍、中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下以備非常。丞相、御史、中二千石至者並莫敢發言。京兆尹不疑後到,叱從吏收縛。或曰:「是非未可知,且安之!」不疑曰:「諸君何患於衞太子!昔蒯聵違命出奔,輒距而不納,春秋是之。衞太子得罪先帝,亡不卽死,今來自詣,此罪人也!」遂送詔獄。天子與大將軍霍光聞而嘉之曰:「公卿大臣當用有經術、明於大誼者。」繇是不疑名聲重於朝廷,在位者皆自以不及也。廷尉驗治何人,竟得姦詐,本夏陽人,姓成,名方遂,居湖,以卜筮為事。有故太子舍人嘗從方遂卜,謂曰:「子狀貌甚似衞太子。」方遂心利其言,冀得以富貴。坐誣罔不道,要斬。”
- ^ 『漢書』巻8 宣帝紀第8:“庚申,入未央宮,見皇太后,封為陽武侯。已而群臣奉上璽綬,即皇帝位,謁高廟。”
- ^ 『漢書』巻63 武五子伝第33:“帝初即位,下詔曰:「故皇太子在湖,未有號諡,歲時祠,其議諡,置園邑。」有司奏請:「禮『為人後者,為之子也』,故降其父母不得祭,尊祖之義也。陛下為孝昭帝後,承祖宗之祀,制禮不踰閑。謹行視孝昭帝所為故皇太子起位在湖,史良娣冢在博望苑北,親史皇孫位在廣明郭北。諡法曰『諡者,行之跡也』,愚以為親諡宜曰悼,母曰悼后,比諸侯王園,置奉邑三百家。故皇太子諡曰戾,置奉邑二百家。史良娣曰戾夫人,置守冢三十家。園置長丞,周衛奉守如法。」以湖閿鄉邪里聚為戾園,長安白亭東為戾后園,廣明成鄉為悼園。皆改葬焉。”
- ^ 『資治通鑑』巻24 漢紀第16:“六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號諡,歲時祠;其議諡,置園邑。」有司奏請:「禮,為人後者,為之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下為孝昭帝後,承祖宗之祀,愚以為親諡宜曰悼,母曰悼后;故皇太子諡曰戾,史良娣曰戾夫人。」皆改葬焉。”
参考文献
- 司馬遷『史記』
- 班固『漢書』
- 司馬光『資治通鑑』
- 藤田忠 (2003), “巫蠱の事件について──「前漢の巫者」の補訂──”, 国士舘大学文学部人文学会紀要 (国士舘大学文学部人文学会) 36: 27-40 2019年8月21日閲覧。
- 徐卫民; 刘江伟 (2011), “西汉巫蛊之祸发生的原因及其影响”, 长安大学学报(社会科学版) (长安大学) 13 (2): 16-22 2019年8月21日閲覧。