「劉子頊」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 「顗」を含む記事についてのリンク修正依頼 (袁顗) - log |
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉子勛) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
劉駿と史昭華のあいだの子として生まれた。[[460年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]4年)、歴陽王に封じられ、冠軍将軍・[[呉興郡]][[太守]]に任じられた。[[461年]](大明5年)閏月、臨海王に改封された。10月、使持節・都督広交二州[[湘州]]之始興始安臨賀三郡諸軍事・征虜将軍・平越中郎将・[[広州]][[刺史]]に転じた。[[462年]](大明6年)7月、[[荊州]]刺史となった。[[464年]](大明8年)、[[前将軍]]の号を受けた。 |
劉駿と史昭華のあいだの子として生まれた。[[460年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]4年)、歴陽王に封じられ、冠軍将軍・[[呉興郡]][[太守]]に任じられた。[[461年]](大明5年)閏月、臨海王に改封された。10月、使持節・都督広交二州[[湘州]]之始興始安臨賀三郡諸軍事・征虜将軍・平越中郎将・[[広州]][[刺史]]に転じた。[[462年]](大明6年)7月、[[荊州]]刺史となった。[[464年]](大明8年)、[[前将軍]]の号を受けた。 |
||
[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が即位すると、本号のまま都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事の任を加えられた。[[465年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]元年)12月、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]が即位すると、子頊は鎮軍将軍・丹陽尹に任じられた。さらに平西将軍の号を与えられたが、長史の孔道存が命を拒否し、晋安王[[ |
[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が即位すると、本号のまま都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事の任を加えられた。[[465年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]元年)12月、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]が即位すると、子頊は鎮軍将軍・丹陽尹に任じられた。さらに平西将軍の号を与えられたが、長史の孔道存が命を拒否し、晋安王[[劉子勛]]に呼応して挙兵した。[[466年]](泰始2年)1月、劉子勛が帝を称すると、子頊は[[衛将軍]]・[[開府儀同三司]]の位を受けた。8月、[[劉胡]]・[[袁顗]]らが敗れると、[[呉喜]]・[[張興世]]らの軍がやってきて、子頊は殺害された。巴陵に葬られた。 |
||
== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年8月24日 (月) 09:45時点における版
劉子頊(りゅう しきょく、456年 - 466年)は、南朝宋の皇族。臨海王。孝武帝劉駿の七男。字は孝列。
経歴
劉駿と史昭華のあいだの子として生まれた。460年(大明4年)、歴陽王に封じられ、冠軍将軍・呉興郡太守に任じられた。461年(大明5年)閏月、臨海王に改封された。10月、使持節・都督広交二州湘州之始興始安臨賀三郡諸軍事・征虜将軍・平越中郎将・広州刺史に転じた。462年(大明6年)7月、荊州刺史となった。464年(大明8年)、前将軍の号を受けた。
前廃帝が即位すると、本号のまま都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事の任を加えられた。465年(泰始元年)12月、明帝が即位すると、子頊は鎮軍将軍・丹陽尹に任じられた。さらに平西将軍の号を与えられたが、長史の孔道存が命を拒否し、晋安王劉子勛に呼応して挙兵した。466年(泰始2年)1月、劉子勛が帝を称すると、子頊は衛将軍・開府儀同三司の位を受けた。8月、劉胡・袁顗らが敗れると、呉喜・張興世らの軍がやってきて、子頊は殺害された。巴陵に葬られた。