コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「繆澄流」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
37行目: 37行目:
|-
|-
! {{CHN1928}}([[国民政府]])
! {{CHN1928}}([[国民政府]])
{{先代次代|[[熱河省]]政府主席|<small>[[1940年]]5月 - [[1941年]]12月</small>|[[湯玉麟]]|[[劉多セン|劉多&#x8343;]]}}
{{先代次代|[[熱河省]]政府主席|<small>[[1940年]]5月 - [[1941年]]12月</small>|[[湯玉麟]]|[[劉多]]}}
|}
|}



2020年8月24日 (月) 09:43時点における版

繆澄流
プロフィール
出生: 1901年光緒26年)
死去: 1990年民国79年)12月11日
中華民国の旗 台湾台北市
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府開原県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 繆澄流
簡体字 缪澄流
拼音 Miào Chéngliú
ラテン字 Mioa Ch'eng-liu
和名表記: ぼく ちょうりゅう
発音転記: ミャオ チョンリュウ
テンプレートを表示

繆 澄流(ぼく ちょうりゅう、1901年 - 1990年12月11日)は中華民国の軍人。奉天派国民革命軍国民政府)に属する。開源

事跡

1923年民国12年)冬、東三省陸軍講武堂歩兵科第5期に入学し、1925年(民国14年)に卒業した。以後、張作霖率いる奉天派で軍歴を重ね、張爆殺直前には旅長に昇進している。

張学良易幟を行った後の1929年(民国18年)8月に、東北陸軍第16旅旅長に任ぜられた。1933年(民国22年)、国民革命軍第116師師長となる。1935年(民国24年)4月、陸軍少将銜を授与され、翌年10月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、張が西安事変を引き起こすと、繆澄流も張の公電に連署している。

事変解決後、張学良の東北軍は解体され、繆澄流も軍指揮権を喪失してしまう。1938年(民国27年)7月、江蘇省政府委員に任ぜられた。1940年(民国29年)5月、熱河省政府主席に任命されている。しかし熱河省政府は実態としては存在しておらず、正式に政府が組織されることなく繆は異動している。1941年(民国30年)、胡宗南の下で西北遊撃幹部訓練班教育長に任ぜられた。後に、中央訓練団団長となっている。

国共内戦中国国民党が敗北すると、繆澄流もこれに従って台湾に逃れた。台湾では、仏教信仰の生活に入っている。

1990年(民国79年)12月11日、台北市にて病没。享年90。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
湯玉麟
熱河省政府主席
1940年5月 - 1941年12月
次代
劉多荃