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「劉行本」の版間の差分

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== 経歴 ==
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劉瓌の子として生まれた。梁の武陵国常侍を初任とした。[[552年]]([[西魏]]の[[廃帝 (西魏)|廃帝]]元年)、梁の宜豊侯蕭循(蕭脩)が[[梁州]]で西魏に降ると、行本は叔父の[[劉ハン|劉璠]]とともに西魏に帰順した。[[京兆郡]][[新豊県]]に寓居した。[[北周]]の大冢宰の[[宇文護]]に召されて中外府記室となった。[[武帝 (北周)|武帝]]が親政をはじめると、御正中士に転じ、起居注を兼ねた。掌朝下大夫に累進した。[[宣帝 (北周)|宣帝]]が即位すると、行本はたびたび宣帝を諫めて憎まれ、[[河内郡 (河南省)|河内郡]][[太守]]として出された。
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[[580年]]([[大象]]2年)、[[尉遅迥]]の反乱軍が[[懐州]]に進攻してくると、行本は吏民を率いて抗戦し、その功績により儀同の位を受け、文安県子の爵位を受けた。[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、諫議大夫として召され、治書侍御史を検校した。まもなく、黄門侍郎に転じた。
[[580年]]([[大象]]2年)、[[尉遅迥]]の反乱軍が[[懐州]]に進攻してくると、行本は吏民を率いて抗戦し、その功績により儀同の位を受け、文安県子の爵位を受けた。[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、諫議大夫として召され、治書侍御史を検校した。まもなく、黄門侍郎に転じた。

2020年8月24日 (月) 09:34時点における版

劉 行本(りゅう こうほん、生没年不詳)は、南朝梁からにかけての人物。本貫沛国相県

経歴

劉瓌の子として生まれた。梁の武陵国常侍を初任とした。552年西魏廃帝元年)、梁の宜豊侯蕭循(蕭脩)が梁州で西魏に降ると、行本は叔父の劉璠とともに西魏に帰順した。京兆郡新豊県に寓居した。北周の大冢宰の宇文護に召されて中外府記室となった。武帝が親政をはじめると、御正中士に転じ、起居注を兼ねた。掌朝下大夫に累進した。宣帝が即位すると、行本はたびたび宣帝を諫めて憎まれ、河内郡太守として出された。

580年大象2年)、尉遅迥の反乱軍が懐州に進攻してくると、行本は吏民を率いて抗戦し、その功績により儀同の位を受け、文安県子の爵位を受けた。581年開皇元年)、隋が建国されると、諫議大夫として召され、治書侍御史を検校した。まもなく、黄門侍郎に転じた。

数年後、治書侍御史を兼任したまま太子左庶子に任じられた。皇太子楊勇をたびたび諫めた。太子左庶子のまま大興県令を兼ねた。在官のまま死去した。楊勇が廃位されたとき、文帝は「もし劉行本が健在なら、勇もこのようなことには及ばなかったろうに」と言って嘆いたと伝えられる。

後嗣となる子はなかった。

伝記資料