「劉カク」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉惔) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[東晋]]の丹陽尹の[[ |
[[東晋]]の丹陽尹の[[劉惔]]の七世孫にあたる。若くして品行方正で才能と度量があった。国子礼生から射策で高い成績をおさめ、[[寧海県]]令となった。しばらくして湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]の下で記室参軍となり、さらに中記室に転じた。[[549年]]([[太清]]3年)、[[侯景]]が[[建康 (都城)|建康]]を陥落させ、蕭繹が[[荊州区|江陵]]で承制すると、蕭繹の檄文の多くは劉瑴の手によって書かれるようになった。劉瑴は蕭繹(元帝)の政権下で尚書左丞や[[御史中丞]]を歴任した。[[553年]]([[承聖]]2年)、吏部尚書・国子祭酒に転じた。 |
||
[[554年]](承聖3年)、[[西魏]]の攻撃により江陵が陥落すると、劉瑴は連行されて[[長安]]に入った。劉瑴の晩年については知られていない。 |
[[554年]](承聖3年)、[[西魏]]の攻撃により江陵が陥落すると、劉瑴は連行されて[[長安]]に入った。劉瑴の晩年については知られていない。 |
2020年8月24日 (月) 09:31時点における版
劉瑴(りゅう かく、生没年不詳)は、南朝梁の官僚。字は仲宝。本貫は沛国相県。
経歴
東晋の丹陽尹の劉惔の七世孫にあたる。若くして品行方正で才能と度量があった。国子礼生から射策で高い成績をおさめ、寧海県令となった。しばらくして湘東王蕭繹の下で記室参軍となり、さらに中記室に転じた。549年(太清3年)、侯景が建康を陥落させ、蕭繹が江陵で承制すると、蕭繹の檄文の多くは劉瑴の手によって書かれるようになった。劉瑴は蕭繹(元帝)の政権下で尚書左丞や御史中丞を歴任した。553年(承聖2年)、吏部尚書・国子祭酒に転じた。
554年(承聖3年)、西魏の攻撃により江陵が陥落すると、劉瑴は連行されて長安に入った。劉瑴の晩年については知られていない。