コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「劉磐」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
「参考文献」節のspanタグについて、リスト全体に対する指定だと判断して、divタグに変更
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
<!-- この記事を編集するときには、表の部分を飛ばして、その後をご覧ください。 -->
<!-- この記事を編集するときには、表の部分を飛ばして、その後をご覧ください。 -->
{{特殊文字}}
{{特殊文字}}
'''劉 磐'''(りゅう ばん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。[[兗州]]山陽郡高平県の人。従父は[[劉表]]。従兄弟は[[劉キ|劉琦]]・[[劉ソウ|劉琮]]・[[劉脩]]・[[劉虎]]。
'''劉 磐'''(りゅう ばん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。[[兗州]]山陽郡高平県の人。従父は[[劉表]]。従兄弟は[[劉キ|劉琦]]・[[劉琮]]・[[劉脩]]・[[劉虎]]。
== 正史の事跡 ==
== 正史の事跡 ==
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller"
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller"
31行目: 31行目:
! 家族・一族
! 家族・一族
| 従父:[[劉表]]
| 従父:[[劉表]]
従兄弟:[[劉キ|劉琦]]、[[劉ソウ|劉琮]]、<br />
従兄弟:[[劉キ|劉琦]]、[[劉琮]]、<br />
[[劉脩]]、[[劉虎]]
[[劉脩]]、[[劉虎]]
|}
|}

2020年8月24日 (月) 09:30時点における版

劉 磐(りゅう ばん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。兗州山陽郡高平県の人。従父は劉表。従兄弟は劉琦劉琮劉脩劉虎

正史の事跡

姓名 劉磐
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 兗州山陽郡高平県
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 劉表
家族・一族 従父:劉表

従兄弟:劉琦劉琮
劉脩劉虎

劉表配下。荊州の勇猛な武将として知られ長沙郡を守備していた。江東孫策からも警戒されていたという。このため孫策は、太史慈を建昌都尉に任命して劉磐に対抗させた。劉磐は何度か侵攻したが、太史慈の統治能力が高かったため、侵攻を差し控えるようになった。

その後、劉表から黄忠と共に長沙の攸県の守備を任された。劉表没後、曹操が荊州を支配するようになると、劉磐は流浪の将軍となり、長沙の艾・西安の諸県を蹂躙したという。以降の行方は不明である。

物語中の劉磐

小説『三国志演義』では、曹操が荊州を支配した後は、攸県で隠居していたことになっている。長沙が劉備の支配下に入ると、黄忠の推挙で劉備に仕え、長沙を統治することになる。

参考文献