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[[312年]]10月、晋陽の[[劉琨]]が[[前趙|漢]]の[[劉粲]]・[[劉曜]]らの攻撃を受けた。拓跋猗盧の命により、拓跋普根は[[拓跋六脩]]・[[衛雄]]・[[范班]]・[[箕澹]]らと共に劉琨救援に向かった。劉粲は恐れて、輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した<ref>『通鑑考異』曰く、『魏書』および『資治通鑑』では、救援に向かったのは猗盧の子「六脩」と桓帝の子「普根」となっているが、『十六国春秋』では「利孫」、「宥六須」となっており、いずれも猗盧の子とされている。同様に、『晋書』載記では「賓六須」、劉琨伝では「左・右賢王」とあり、また右賢王は「撲速根」と記載がある。さらに、王浚伝には猗盧の子は右賢王「日律孫」であるという記述がある。恐らく「日律孫」「利孫」「撲速根」は全て「普根」のことを言っていると思われるが、音が合わない。また、懐帝紀でも「利孫」は猗盧の子という記載があるため、「日律孫」「利孫」「撲速根」はすべて「六脩」のことを言っており、『十六国春秋』で「利孫」、「宥六須」と分かれているのは誤記ではないかという説もある。</ref>。 |
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[[316年]]3月、拓跋猗盧が拓跋六脩に殺害された。この時、拓跋普根は国境近辺を守備していたが、変事を聞くとすぐさま帰還し、拓跋六脩を打ち破ると、彼を殺した。こうして国内を平定すると、王位を継承した。 |
[[316年]]3月、拓跋猗盧が拓跋六脩に殺害された。この時、拓跋普根は国境近辺を守備していたが、変事を聞くとすぐさま帰還し、拓跋六脩を打ち破ると、彼を殺した。こうして国内を平定すると、王位を継承した。 |
2020年8月24日 (月) 09:24時点における版
拓跋普根 | |
---|---|
代 | |
2代王 | |
王朝 | 代 |
在位期間 | 316年 |
都城 | 盛楽 |
姓・諱 | 拓跋普根 |
字 | 不詳 |
父 | 拓跋猗㐌 |
拓跋 普根(たくばつ ふこん、拼音:Tuòbá Pǔgēn、? - 316年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)で、五胡十六国時代の代国の第2代の王(在位:316年)。拓跋猗㐌の子。
生涯
305年6月、父の拓跋猗㐌が死ぬと、拓跋普根は後を継ぎ、中部拓跋部を統治した。
307年、拓跋禄官が死ぬと、拓跋猗盧が三部全てを統治するようになり、拓跋普根はその任を降りた。
312年10月、晋陽の劉琨が漢の劉粲・劉曜らの攻撃を受けた。拓跋猗盧の命により、拓跋普根は拓跋六脩・衛雄・范班・箕澹らと共に劉琨救援に向かった。劉粲は恐れて、輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した[1]。
316年3月、拓跋猗盧が拓跋六脩に殺害された。この時、拓跋普根は国境近辺を守備していたが、変事を聞くとすぐさま帰還し、拓跋六脩を打ち破ると、彼を殺した。こうして国内を平定すると、王位を継承した。
だが、この一件により国中は大いに乱れ、拓跋部の民と晋や烏桓から帰順した人が互いに殺し合った。拓跋猗盧の腹心として長年仕え、衆望を集めていた左将軍の衛雄と信義将軍の箕澹は、このような事態に陥ったので、劉琨へ帰順しようと謀った。そして、人質として派遣されていた劉琨の子の劉遵と共に、晋人や烏桓人3万世帯と牛馬羊10万頭を率いて劉琨へ帰順した。劉琨は大いに喜び、自ら平城へ出向いて彼等を迎え入れた。これによって、劉琨の勢力が再び強大になった。
4月、拓跋普根が亡くなった。在位期間はわずか1月であった。その息子は生まれたばかりだったが、普根の母の惟氏により代王に立てられた。
参考資料
注釈
- ^ 『通鑑考異』曰く、『魏書』および『資治通鑑』では、救援に向かったのは猗盧の子「六脩」と桓帝の子「普根」となっているが、『十六国春秋』では「利孫」、「宥六須」となっており、いずれも猗盧の子とされている。同様に、『晋書』載記では「賓六須」、劉琨伝では「左・右賢王」とあり、また右賢王は「撲速根」と記載がある。さらに、王浚伝には猗盧の子は右賢王「日律孫」であるという記述がある。恐らく「日律孫」「利孫」「撲速根」は全て「普根」のことを言っていると思われるが、音が合わない。また、懐帝紀でも「利孫」は猗盧の子という記載があるため、「日律孫」「利孫」「撲速根」はすべて「六脩」のことを言っており、『十六国春秋』で「利孫」、「宥六須」と分かれているのは誤記ではないかという説もある。
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