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==学問と思想==
==学問と思想==
父と叔父の書架に『[[東華録]]』『[[皇朝掌故叢編]]』が並び、祖父母から『[[山海経]]』などの伝説・神話を聞くといった環境で育ち、7歳頃には小説や簡単な古書が読めるようになり家庭と私塾で[[四書五経]]を習う。11歳の頃『綱鑑易知録』を読み、『[[資治通鑑綱目|通鑑綱目]]』の権勢に媚びた歴史の書き方に反発する。[[梁啓超]]の言論に動かされ救国の責任を自覚したのもこの頃である。[[1905年]]発行の『国粋学報』の中で[[劉師培]]・[[章炳麟]]の論文に接し、過去の中国に多くの錯雑した学派があったことを知る。16歳の時に『[[国朝先正事略]]』を読み、[[閻若キョ|閻若璩]]が古文尚書を偽作と断じているのに興味を持つ。
父と叔父の書架に『[[東華録]]』『[[皇朝掌故叢編]]』が並び、祖父母から『[[山海経]]』などの伝説・神話を聞くといった環境で育ち、7歳頃には小説や簡単な古書が読めるようになり家庭と私塾で[[四書五経]]を習う。11歳の頃『綱鑑易知録』を読み、『[[資治通鑑綱目|通鑑綱目]]』の権勢に媚びた歴史の書き方に反発する。[[梁啓超]]の言論に動かされ救国の責任を自覚したのもこの頃である。[[1905年]]発行の『国粋学報』の中で[[劉師培]]・[[章炳麟]]の論文に接し、過去の中国に多くの錯雑した学派があったことを知る。16歳の時に『[[国朝先正事略]]』を読み、[[閻若璩]]が古文尚書を偽作と断じているのに興味を持つ。


予科に入学した頃に芝居観劇に熱中し、物語の構成は史書から講談・芝居へと移し替える際に読者や観客の喜ぶように改変されること、荒唐無稽の中にも一定の法則があることに気づく。同じ頃に章炳麟の影響を受けて、[[今文学派]]が[[孔子]]を教祖として扱っていることに反対し、史書を見る目で[[六経]]を認識するようになる。さらに章炳麟が今文学派の「[[通経致用]]」を攻撃したことは、学問探求を実用の範囲にとどめず「無用」の研究に邁進させる励みとなった。
予科に入学した頃に芝居観劇に熱中し、物語の構成は史書から講談・芝居へと移し替える際に読者や観客の喜ぶように改変されること、荒唐無稽の中にも一定の法則があることに気づく。同じ頃に章炳麟の影響を受けて、[[今文学派]]が[[孔子]]を教祖として扱っていることに反対し、史書を見る目で[[六経]]を認識するようになる。さらに章炳麟が今文学派の「[[通経致用]]」を攻撃したことは、学問探求を実用の範囲にとどめず「無用」の研究に邁進させる励みとなった。

2020年8月24日 (月) 08:59時点における版

1954年の顧頡剛

顧頡剛(こ けつごう、Ku Chieh-kang、1893年5月8日 - 1980年12月25日)は中国の歴史学者・民俗学者。中国の歴史学派の一つである「疑古派」の創始者。

生涯

江蘇省呉県(現在の蘇州市姑蘇区)にある古い読書人の家柄に生まれる。13歳の時には開設されたばかりの第一班高等小学に入学した。1913年北京大学の予科に入学。1920年に北京大学哲学門を卒業し、上海の商務印書館・編輯員として勤務し、その後は厦門大学中山大学燕京大学北京大学雲南大学山東基督教共和大学国立中央大学復旦大学蘭州大学の教授を歴任する。1933年からは学術誌「Chinese Historical Geography」の編輯員を兼任している。1949年から中国科学院歴史研究所の研究員となる。1959年から『史記』をはじめとした全二十四史に校点をつけるという大事業に取り組む。1966年から始まる文化大革命の期間には、「資産階級反動学術権威」として糾弾され一時は廃業も考えるまで追い詰められたが、1971年4月に周恩来が『二十五史』校点事業の再開を命じたことにより研究活動が可能となった。1977年からは中国社会科学院の特級研究員として読書と著述を続け87歳で没する。遺言により遺体は中国医学科学院に献じられた。

学問と思想

父と叔父の書架に『東華録』『皇朝掌故叢編』が並び、祖父母から『山海経』などの伝説・神話を聞くといった環境で育ち、7歳頃には小説や簡単な古書が読めるようになり家庭と私塾で四書五経を習う。11歳の頃『綱鑑易知録』を読み、『通鑑綱目』の権勢に媚びた歴史の書き方に反発する。梁啓超の言論に動かされ救国の責任を自覚したのもこの頃である。1905年発行の『国粋学報』の中で劉師培章炳麟の論文に接し、過去の中国に多くの錯雑した学派があったことを知る。16歳の時に『国朝先正事略』を読み、閻若璩が古文尚書を偽作と断じているのに興味を持つ。

予科に入学した頃に芝居観劇に熱中し、物語の構成は史書から講談・芝居へと移し替える際に読者や観客の喜ぶように改変されること、荒唐無稽の中にも一定の法則があることに気づく。同じ頃に章炳麟の影響を受けて、今文学派孔子を教祖として扱っていることに反対し、史書を見る目で六経を認識するようになる。さらに章炳麟が今文学派の「通経致用」を攻撃したことは、学問探求を実用の範囲にとどめず「無用」の研究に邁進させる励みとなった。

1916年からは、蔡元培陳独秀黄遠庸による思想革命・学術改革の気運に乗り、1917年に北京大学に赴任した胡適の教えにより今までに書かれた上古史は信頼できないという以前からの確信を強められた。1918年に休学している時、劉復の歌謡収集に刺激され研究の範囲を方言・ことわざ・謎・唱本・風俗・宗教へと広げることになる。

1920年に胡適から姚際恒について尋ねられたのがきっかけとなり、偽書から偽史の検討へ入る。そこで康有為の『孔子改制考』に啓発され上古史への古文学派の牽強付会を斥け、同時に今文学派が犯した学問と政策の混同を避けるという、公平かつ実証的な方針を確立した。その過程で鄭樵崔述羅振玉王国維などの先人の業績を再評価している。この研究は考古学・歴史学・民俗学の知識を総覧し統合するという前人未踏の課題を含み、主著である『古史辨』として結実した。

主要著書

  • 論文集『古史辨』7冊(1926-1941年)
  • 『清代著述考』(中山大学、1920年)
  • 『尚書通検』(上海古籍、1966年)
  • 『孟姜女故事研究集』(上海古籍、1984年)
  • 『中国上古史研究講義』(中華書局、1999年)
  • 『中国古代の学術と政治』(大修館書店、1978年)
  • 『中国史学入門』(研文出版、1987年)
  • 『春秋三傳及国語之綜合研究』(巴蜀書社、1988年)
  • 『秦漢的方士与儒生』(群聯出版社、1955年)
  • 『五徳終始説下的政治和歴史』(龍門書店、1970年)
  • 『西北考察日記』(学習院大学東洋文化研究所、1982年)
  • 『元明雑劇』(上海古籍、1979年)
  • 『史林雑識初編』(中華書局、1977年)
  • 『漢代学述史略』(東方出版社、2005年)
  • 『顧頡剛読書筆記』(中華書局、2010年)
  • 『中国当代史学』(上海世紀出版集団、2006年)
  • 『中国疆域沿革史』(商務印書館、1999 年)
  • 『三皇考』(哈佛燕京学社、1936年)

参考文献

  • 顧頡剛『ある歴史家の生い立ち』(岩波文庫、1987年)
  • 劉起釪『顧頡剛先生学述』(中華書局、1986年)
  • 王煦華「顧頡剛先生学術紀年」(巴蜀書社『紀念顧頡剛学術論文集』所収、1990年)

外部リンク

  • 陳仲奇『顧頡剛の「国史整理計画書」について』(島根県立大学総合政策学会『総合政策論叢』第8号)[1]