コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「明 (姓)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
[[晋 (春秋)|晋]]の[[献公 (晋)|献公]]が{{仮リンク|虞 (春秋)|zh|虞国|label=虞}}(姫姓の国)を滅ぼした際に、虞公と[[百里奚]]が捕えられた。百里奚はのちに[[秦|秦国]]の大夫となり、子の{{仮リンク|孟明視|zh|孟明視}}(名は視、字は孟明。孟明視と呼ばれる)を得た。孟明視の支孫は、祖父の字の「明」の字をとって、氏としたという。
[[晋 (春秋)|晋]]の[[献公 (晋)|献公]]が{{仮リンク|虞 (春秋)|zh|虞国|label=虞}}(姫姓の国)を滅ぼした際に、虞公と[[百里奚]]が捕えられた。百里奚はのちに[[秦|秦国]]の大夫となり、子の{{仮リンク|孟明視|zh|孟明視}}(名は視、字は孟明。孟明視と呼ばれる)を得た。孟明視の支孫は、祖父の字の「明」の字をとって、氏としたという。


明氏は中国各地に広がったが、特に[[湖北省|湖北]]の[[陽新県|陽新]]には一大支族があり、最盛期には千戸に達して祠堂や祖廟を立てた。明氏の一部は、[[清]]の[[乾隆]]19年([[1754年]])に陽新から移って[[キ春県|蘄春県]]の漕河に移住した。
明氏は中国各地に広がったが、特に[[湖北省|湖北]]の[[陽新県|陽新]]には一大支族があり、最盛期には千戸に達して祠堂や祖廟を立てた。明氏の一部は、[[清]]の[[乾隆]]19年([[1754年]])に陽新から移って[[蘄春県]]の漕河に移住した。


=== 著名な人物 ===
=== 著名な人物 ===

2020年8月24日 (月) 03:15時点における版

(めい)は、漢姓の一つ。

中国の姓

各種表記
繁体字
簡体字
拼音 Míng
注音符号 ㄇㄧㄥˊ
ラテン字 Ming
広東語発音: Ming4
上海語発音: Min1
台湾語白話字 Bêng
テンプレートを表示

(めい)は、中国の姓の一つ。

王室と同じ姫姓である。南宋鄭樵がまとめた『通志』氏族略では「父王(祖父)のをもってとする」例として挙げられている。同書によれば次の通りに起源が記されている。

献公(姫姓の国)を滅ぼした際に、虞公と百里奚が捕えられた。百里奚はのちに秦国の大夫となり、子の孟明視中国語版(名は視、字は孟明。孟明視と呼ばれる)を得た。孟明視の支孫は、祖父の字の「明」の字をとって、氏としたという。

明氏は中国各地に広がったが、特に湖北陽新には一大支族があり、最盛期には千戸に達して祠堂や祖廟を立てた。明氏の一部は、乾隆19年(1754年)に陽新から移って蘄春県の漕河に移住した。

著名な人物

朝鮮の姓

ミョン
各種表記
ハングル
漢字
発音: ミョン
日本語読み: めい
ローマ字 Myŏng
英語表記: Myeong ,Myung, Myoung, Myong
テンプレートを表示

(めい、ミョン、: )は、朝鮮人の姓の一つである。2000年の国勢調査による韓国内での人口は26,746人。

元末に中国で反乱を起こし「」を建国した明玉珍の子明昇は、明の朱元璋に降ったのち、高麗に移された。高麗の恭愍王延安白川を食邑として与えた。

明昇の末裔は西蜀明氏と呼ばれ、始祖を明玉珍、本貫を西蜀(四川省)としている。その一部の支族は本貫を延安郡とし、延安明氏と称する。西蜀明氏と延安明氏は合同の宗親会を持ち、1986年に『明氏大同譜』を刊行している。

氏族

氏族(地域) 創始者 割合 (%) (2000年)
西蜀明氏 1362年四川省を建国した明玉珍
延安明氏 1362年に四川省に夏を建国した明玉珍

琉球の姓

(みん)は、琉球王国の士族が持った唐名(からなー)の姓のひとつ(沖縄県の名字参照)。

氏族

関連項目