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新の[[王莽]]配下の人物。最初は[[匈奴]]との外交事務に関与していた模様である。まず、中郎将韓隆を長とする匈奴への使節団に、甄阜は副校尉として加わり、次いで中郎将[[王駿 (明義侯)|王駿]]を長とする使節団にも同じ肩書で加わっている。新が創設された後の[[始建国]]1年([[9年]])にも、甄阜は五威将王駿を長とする匈奴への使節団に参加した。 |
新の[[王莽]]配下の人物。最初は[[匈奴]]との外交事務に関与していた模様である。まず、中郎将韓隆を長とする匈奴への使節団に、甄阜は副校尉として加わり、次いで中郎将[[王駿 (明義侯)|王駿]]を長とする使節団にも同じ肩書で加わっている。新が創設された後の[[始建国]]1年([[9年]])にも、甄阜は五威将王駿を長とする匈奴への使節団に参加した。 |
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その後、時期は不明だが、甄阜は前隊大夫(新制の南陽太守)に任命され、[[地皇 (元号)|地皇]]年間において反新勢力の摘発・鎮圧に従事した。[[李通 (次元)|李通]]が反新活動に参加したことから、宛の名家である李氏一族を尽く処刑したり、反新軍に敗北して棘陽(南陽郡)から撤退した県長[[岑彭]]の母を拘束したりするなど、苛烈にして強迫的な手法が目立つ。地皇3年([[22年]])末、宛を目指して進軍してきた[[ |
その後、時期は不明だが、甄阜は前隊大夫(新制の南陽太守)に任命され、[[地皇 (元号)|地皇]]年間において反新勢力の摘発・鎮圧に従事した。[[李通 (次元)|李通]]が反新活動に参加したことから、宛の名家である李氏一族を尽く処刑したり、反新軍に敗北して棘陽(南陽郡)から撤退した県長[[岑彭]]の母を拘束したりするなど、苛烈にして強迫的な手法が目立つ。地皇3年([[22年]])末、宛を目指して進軍してきた[[劉縯]]、[[王匡 (更始)|王匡]]らの反新軍を、属正(新制の都尉)梁丘賜と共に小長安聚(南陽郡育陽県)で迎撃した。甄阜はこれに勝利し、さらに劉縯の一族数十人も殺害している。 |
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地皇4年([[23年]])1月、甄阜・梁丘賜は、勢いに乗って南へ向けて追撃する。甄阜らは輜重を藍郷(南陽郡棘陽県)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水を渡り、沘水に臨んで両川の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷いた。しかし劉縯は、[[王常 (後漢)|王常]]率いる下江軍を味方に引き入れ、反撃に転じる。別働隊に藍郷の輜重を奪わせた上で、劉縯らは甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けた。逃げ場を失っていた甄阜・梁丘賜軍は、次々と黄淳水に落ち込んで2万人余りの死者を出し、甄阜・梁丘賜も混乱の中で戦死とされる。 |
地皇4年([[23年]])1月、甄阜・梁丘賜は、勢いに乗って南へ向けて追撃する。甄阜らは輜重を藍郷(南陽郡棘陽県)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水を渡り、沘水に臨んで両川の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷いた。しかし劉縯は、[[王常 (後漢)|王常]]率いる下江軍を味方に引き入れ、反撃に転じる。別働隊に藍郷の輜重を奪わせた上で、劉縯らは甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けた。逃げ場を失っていた甄阜・梁丘賜軍は、次々と黄淳水に落ち込んで2万人余りの死者を出し、甄阜・梁丘賜も混乱の中で戦死とされる。 |
2020年8月22日 (土) 22:17時点における版
甄 阜(しん ふ、? - 23年)は、中国の前漢末期から新代の武将、政治家。
事跡
姓名 | 甄阜 |
---|---|
時代 | 前漢 - 新 |
生没年 | ? - 23年(地皇4年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 副校尉〔前漢〕→前隊大夫〔新〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 平帝→孺子嬰→王莽 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
新の王莽配下の人物。最初は匈奴との外交事務に関与していた模様である。まず、中郎将韓隆を長とする匈奴への使節団に、甄阜は副校尉として加わり、次いで中郎将王駿を長とする使節団にも同じ肩書で加わっている。新が創設された後の始建国1年(9年)にも、甄阜は五威将王駿を長とする匈奴への使節団に参加した。
その後、時期は不明だが、甄阜は前隊大夫(新制の南陽太守)に任命され、地皇年間において反新勢力の摘発・鎮圧に従事した。李通が反新活動に参加したことから、宛の名家である李氏一族を尽く処刑したり、反新軍に敗北して棘陽(南陽郡)から撤退した県長岑彭の母を拘束したりするなど、苛烈にして強迫的な手法が目立つ。地皇3年(22年)末、宛を目指して進軍してきた劉縯、王匡らの反新軍を、属正(新制の都尉)梁丘賜と共に小長安聚(南陽郡育陽県)で迎撃した。甄阜はこれに勝利し、さらに劉縯の一族数十人も殺害している。
地皇4年(23年)1月、甄阜・梁丘賜は、勢いに乗って南へ向けて追撃する。甄阜らは輜重を藍郷(南陽郡棘陽県)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水を渡り、沘水に臨んで両川の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷いた。しかし劉縯は、王常率いる下江軍を味方に引き入れ、反撃に転じる。別働隊に藍郷の輜重を奪わせた上で、劉縯らは甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を仕掛けた。逃げ場を失っていた甄阜・梁丘賜軍は、次々と黄淳水に落ち込んで2万人余りの死者を出し、甄阜・梁丘賜も混乱の中で戦死とされる。