コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陳茂」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
「参考文献」節のspanタグについて、リスト全体を指定する意図と判断して、divタグに変更
Cewbot (会話 | 投稿記録)
35行目: 35行目:
[[前漢]]の[[平帝 (漢)|平帝]]の時代には[[執金吾]]侯(執金吾の属官)の地位にあった。[[天鳳 (元号)|天鳳]]2年([[15年]])、[[苗キン|苗訢]]の後任として、陳茂は[[大司馬]]に就任する。しかし翌天鳳3年([[16年]])秋、[[日食]]の出現を理由として大司馬を罷免された(後任は[[荘尤]](厳尤))。
[[前漢]]の[[平帝 (漢)|平帝]]の時代には[[執金吾]]侯(執金吾の属官)の地位にあった。[[天鳳 (元号)|天鳳]]2年([[15年]])、[[苗キン|苗訢]]の後任として、陳茂は[[大司馬]]に就任する。しかし翌天鳳3年([[16年]])秋、[[日食]]の出現を理由として大司馬を罷免された(後任は[[荘尤]](厳尤))。


その後、時期は不明だが、陳茂は[[太常|秩宗]]将軍(「秩宗」は太常に相当する)に任命され、[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、[[大司農|納言]]将軍荘尤と共に、[[王常 (後漢)|王常]]率いる[[荊州]]の反新軍である下江軍を撃破している。しかし翌地皇4年([[23年]])、陳茂と荘尤は、[[劉エン (伯升)|劉縯]]率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、陳茂と荘尤は、荊州の[[更始帝]](劉玄)を討伐する[[司空|大司空]][[王邑]]、[[司徒|大司徒]][[王尋]]の新軍主力部隊に合流した。しかし、この新軍主力部隊も、同年6月の[[昆陽の戦い]]で、劉秀([[光武帝]])率いる漢軍に大敗して壊滅し、荘尤と陳茂は辛うじて戦場から離脱した。
その後、時期は不明だが、陳茂は[[太常|秩宗]]将軍(「秩宗」は太常に相当する)に任命され、[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、[[大司農|納言]]将軍荘尤と共に、[[王常 (後漢)|王常]]率いる[[荊州]]の反新軍である下江軍を撃破している。しかし翌地皇4年([[23年]])、陳茂と荘尤は、[[劉縯]]率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、陳茂と荘尤は、荊州の[[更始帝]](劉玄)を討伐する[[司空|大司空]][[王邑]]、[[司徒|大司徒]][[王尋]]の新軍主力部隊に合流した。しかし、この新軍主力部隊も、同年6月の[[昆陽の戦い]]で、劉秀([[光武帝]])率いる漢軍に大敗して壊滅し、荘尤と陳茂は辛うじて戦場から離脱した。


陳茂と荘尤は、譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り、漢朝の将軍を号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで、漢が復興すべきであると、沛の官吏や民衆に対して演説したが、一方の陳茂は、地に伏して哭泣したという。しかし、荘尤と陳茂は、荊州の更始帝には降らなかった。[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])8月、漢では鍾武侯であった[[劉望]](『[[漢書]]』では「劉聖」)が汝南郡で皇帝を自称していると聞くと、2人はこれに投降し、荘尤は大司馬、陳茂は[[丞相]]に任命された。
陳茂と荘尤は、譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り、漢朝の将軍を号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで、漢が復興すべきであると、沛の官吏や民衆に対して演説したが、一方の陳茂は、地に伏して哭泣したという。しかし、荘尤と陳茂は、荊州の更始帝には降らなかった。[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])8月、漢では鍾武侯であった[[劉望]](『[[漢書]]』では「劉聖」)が汝南郡で皇帝を自称していると聞くと、2人はこれに投降し、荘尤は大司馬、陳茂は[[丞相]]に任命された。

2020年8月22日 (土) 22:17時点における版

陳 茂(ちん も、? - 23年)は、中国代の武将、政治家。王莽の配下で、延徳侯に封じられた。

事跡

姓名 陳茂
時代
生没年 生年不詳 - 23年更始元年)
字・別号 不詳
出身地 不詳
職官 執金吾候〔前漢〕→大司馬〔新〕

秩宗将軍〔新〕→丞相〔劉望〕 

爵位・号等 延徳侯〔新〕
陣営・所属等 王莽劉望(劉聖)
家族・一族 不詳

前漢平帝の時代には執金吾侯(執金吾の属官)の地位にあった。天鳳2年(15年)、苗訢の後任として、陳茂は大司馬に就任する。しかし翌天鳳3年(16年)秋、日食の出現を理由として大司馬を罷免された(後任は荘尤(厳尤))。

その後、時期は不明だが、陳茂は秩宗将軍(「秩宗」は太常に相当する)に任命され、地皇3年(22年)、納言将軍荘尤と共に、王常率いる荊州の反新軍である下江軍を撃破している。しかし翌地皇4年(23年)、陳茂と荘尤は、劉縯率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、陳茂と荘尤は、荊州の更始帝(劉玄)を討伐する大司空王邑大司徒王尋の新軍主力部隊に合流した。しかし、この新軍主力部隊も、同年6月の昆陽の戦いで、劉秀(光武帝)率いる漢軍に大敗して壊滅し、荘尤と陳茂は辛うじて戦場から離脱した。

陳茂と荘尤は、譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り、漢朝の将軍を号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで、漢が復興すべきであると、沛の官吏や民衆に対して演説したが、一方の陳茂は、地に伏して哭泣したという。しかし、荘尤と陳茂は、荊州の更始帝には降らなかった。更始1年(23年)8月、漢では鍾武侯であった劉望(『漢書』では「劉聖」)が汝南郡で皇帝を自称していると聞くと、2人はこれに投降し、荘尤は大司馬、陳茂は丞相に任命された。

更始帝は、皇帝を称した劉望の政権を敵とみなし、大司徒劉賜を派遣してこれを討伐させたが、劉望らは劉賜を撃退する。しかし同年10月、続いて討伐に来た奮威大将軍劉信に敗れ、劉望、荘尤、陳茂はいずれも戦死した[1]

  1. ^ 『漢書』王莽伝によると、陳茂らは十数日で滅亡したという。ただし、十数日の起点が、陳茂の丞相就任日、劉賜の討伐開始日、劉信の討伐開始日のいずれであるかは不明である。

参考文献

  • 漢書』巻99中 列伝69中 王莽伝中
    • 同 巻99下 列伝69下 王莽伝下
    • 同 巻12 本紀12 平帝紀
  • 後漢書』本紀1上 光武帝紀上
    • 同 列伝1 劉玄伝
    • 同 列伝4 安成孝侯賜伝

関連項目