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「張卬」の版間の差分

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[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、疫病が原因で緑林軍は分散しなければならなくなったが、張卬は、[[王常 (後漢)|王常]]、[[成丹]]と共に藍口聚(南郡編県)で「下江軍」を号し<ref>張卬は、『[[後漢書]]』劉玄伝によると新市軍、同[[王常 (後漢)|王常]]伝によると下江軍に合流したとされている。ただ、後者の描写は詳細であること等から、本記事では後者をとる。</ref>、王常を下江軍の頭領に戴いた。
[[地皇 (元号)|地皇]]3年([[22年]])、疫病が原因で緑林軍は分散しなければならなくなったが、張卬は、[[王常 (後漢)|王常]]、[[成丹]]と共に藍口聚(南郡編県)で「下江軍」を号し<ref>張卬は、『[[後漢書]]』劉玄伝によると新市軍、同[[王常 (後漢)|王常]]伝によると下江軍に合流したとされている。ただ、後者の描写は詳細であること等から、本記事では後者をとる。</ref>、王常を下江軍の頭領に戴いた。


同年、下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)に駐屯していた際に、舂陵軍の[[劉エン (伯升)|劉縯]]([[光武帝|劉秀]]の兄)が合流を求めて交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし、合流を望む王常の説得を受け、2人を始めとする他の下江軍部将はこれを承認した。地皇4年([[23年]])1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、沘水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)[[甄阜]]、属正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。
同年、下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)に駐屯していた際に、舂陵軍の[[劉縯]]([[光武帝|劉秀]]の兄)が合流を求めて交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし、合流を望む王常の説得を受け、2人を始めとする他の下江軍部将はこれを承認した。地皇4年([[23年]])1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、沘水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)[[甄阜]]、属正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。


その後、緑林軍は再合流し、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを皇帝として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の[[士大夫]](舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。そして張卬は、劉玄派に与していた。結局、劉縯が劉玄に譲る形となり、議論の最後で、張卬は抜剣して地を斬りつけ、「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言い放っている。こうして[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])2月、劉玄は更始帝として即位し、張卬は[[衛尉]]大将軍に任命された。
その後、緑林軍は再合流し、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを皇帝として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の[[士大夫]](舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。そして張卬は、劉玄派に与していた。結局、劉縯が劉玄に譲る形となり、議論の最後で、張卬は抜剣して地を斬りつけ、「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言い放っている。こうして[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])2月、劉玄は更始帝として即位し、張卬は[[衛尉]]大将軍に任命された。

2020年8月22日 (土) 22:15時点における版

張 卬(ちょう ごう、生没年不詳)は、中国代の武将。緑林軍の武将、のち更始帝(劉玄)政権の重鎮。

事跡

緑林軍時代と更始帝擁立

姓名 張卬
時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔緑林軍部将〕→〔下江軍部将〕

衛尉大将軍〔更始〕

爵位・号等 淮陽王〔更始〕
陣営・所属等 王匡王常更始帝劉盆子
家族・一族 〔不詳〕

地皇3年(22年)、疫病が原因で緑林軍は分散しなければならなくなったが、張卬は、王常成丹と共に藍口聚(南郡編県)で「下江軍」を号し[1]、王常を下江軍の頭領に戴いた。

同年、下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)に駐屯していた際に、舂陵軍の劉縯劉秀の兄)が合流を求めて交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし、合流を望む王常の説得を受け、2人を始めとする他の下江軍部将はこれを承認した。地皇4年(23年)1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、沘水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、属正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。

その後、緑林軍は再合流し、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを皇帝として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。そして張卬は、劉玄派に与していた。結局、劉縯が劉玄に譲る形となり、議論の最後で、張卬は抜剣して地を斬りつけ、「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言い放っている。こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、張卬は衛尉大将軍に任命された。

兵変と更始帝殺害

新が滅亡し、更始帝が更始2年(24年)2月に長安へ遷都すると、張卬は淮陽王に封じられた。しかし、この頃から、張卬の振舞いは横暴となり、王匡と共に悪名を振りまくことになる。翌更始3年(25年)、張卬は、王匡、成丹らと共に10数万の軍勢を率いて河東郡を守備し、劉秀の部将鄧禹を迎撃した。しかし結果は大敗に終わり、張卬らは河東を放棄して長安へ逃げ帰った。

さらに赤眉軍も西進してくると、劣悪な情勢を打開するため、張卬は諸将に対して「南陽に引き返すべきだ。敗北しても、再び緑林の生活に戻ればいい」旨を主張し、多くの将の同意を得た。こうして張卬は、王匡、廖湛胡殷申屠建と共に、いったん南陽へ逃れることを更始帝に進言したが、更始帝は拒否した。これに不満を抱いた張卬は、廖湛、胡殷、申屠建、隗囂と共に、更始帝へのクーデターを図ったが、更始帝はこれを事前に察知し、5人を呼び寄せて誅殺しようとする。しかし張卬ら4人は、状況の変化を悟って何とか逃走した(申屠建のみ、更始帝により誅殺)。

ここで張卬は、廖湛、胡殷と共に兵変を実行し、更始帝は姻戚の将趙萌(右大司馬)が駐屯している新豊(京兆尹)へ逃げた。張卬は、新豊から逃走してきた王匡の軍を加えたが、更始帝、趙萌、李松(更始政権の丞相)の反撃に遭い、激戦の末に敗走した。進退窮まった張卬らは、赤眉軍に降伏してこれを長安まで導き、同年9月、長安は陥落して更始政権は滅亡した。更始帝は赤眉軍に助命されたが、復讐を受けることを恐れた張卬は、赤眉軍の将謝禄を唆して更始帝を絞殺させている。

これ以降、張卬は史書に現れない。

  1. ^ 張卬は、『後漢書』劉玄伝によると新市軍、同王常伝によると下江軍に合流したとされている。ただ、後者の描写は詳細であること等から、本記事では後者をとる。

参考文献

  • 後漢書』巻1上本紀1上光武帝紀
  • 同巻11列伝1劉玄伝
  • 同巻14列伝4斉武王縯伝
  • 同巻15列伝5王常伝
  • 同巻16列伝6鄧禹伝

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