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** 9月 - 李王職典医となる。[[高宗 (朝鮮王)|李太王]]の嘱託となり、李太王死去後も李王の嘱託と[[李堈]]公の嘱託医を続ける。 |
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** 5月 - 軍医正となり、11月に[[記念章#大礼記念章(大正)|大礼記念章]]授与。 |
** 5月 - 軍医正となり、11月に[[記念章#大礼記念章(大正)|大礼記念章]]授与。 |
2020年8月20日 (木) 00:57時点における版
かみおか いっこう 神岡 一亨 | |
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神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年1月10日 - 没年不明)[1][2]は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。
略歴
- 1902年
- 1月30日 - 陸軍衛生部委托生徒に任命され、7月より研修医官として勤務。
- 12月 - 3等軍医任命後、工兵第4大隊所属となる。
- 1903年
- 12月 - 2等軍医となる。
- 1905年
- 1906年
- 4月 - 勲五等双光旭日章を受ける。韓国駐剳病院へ行き、鎭南浦分院長となる。
- 1907年
- 5月 - 1等軍医となり、同年10月、忠北忠州分院長として勤務。
- 1908年
- 1909年
- 10月 - 清州慈惠医院長となる。
- 1910年
- 9月 - 大韓医院医官事務嘱託となる。
- 10月1日 - 朝鮮総督府官制によって朝鮮総督府医院高等官第6グプボン内科部長となる。
- 1913年
- 6月 - 朝鮮辞書審査員となる。
- 1914年
- 1915年
- 1918年
- 5月 - 勲三等瑞宝章を受ける。
- 1920年
- 4月 - 朝鮮総督府医院医官兼京城医学専門学校教授を辞職。
- 1921年
- 3月 - 李王職嘱託を任命されて奏任官待遇となる。[3](李王殿下附典医嘱託に任命されると共に京城府苑南洞の自宅で開業医となる)