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「曹宗寿」の版間の差分

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'''曹 宗寿'''(そう そうじゅ、Cao Zong-shou、? - ?)は、[[北宋]]時期の曹氏[[帰義軍]][[節度使]]の七代目である。[[曹延禄]]の族子である。曹宗寿は曹延禄を自殺に追い込み、位を継いだ。
'''曹 宗寿'''(そう そうじゅ、Cao Zong-shou、? - ?)は、[[北宋]]時期の曹氏[[帰義軍]][[節度使]]の七代目である。[[曹延禄]]の族子である。曹宗寿は曹延禄を自殺に追い込み、位を継いだ。


[[真宗 (宋)|宋真宗]]の[[咸平]]5年([[1002年]])、[[宋 (王朝)|宋]]は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿に金紫光禄大夫、検校[[太保]]、使持節沙州[[刺史]]にし、[[御史大夫]]も兼ねさせ、帰義軍節度使にし、'''[[ショウ郡|譙郡]]開国侯'''に封じ、食邑一千戸を与えた<ref>『[[宋史]]』「真宗紀」</ref>。
[[真宗 (宋)|宋真宗]]の[[咸平]]5年([[1002年]])、[[宋 (王朝)|宋]]は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿に金紫光禄大夫、検校[[太保]]、使持節沙州[[刺史]]にし、[[御史大夫]]も兼ねさせ、帰義軍節度使にし、'''[[譙郡]]開国侯'''に封じ、食邑一千戸を与えた<ref>『[[宋史]]』「真宗紀」</ref>。


曹宗寿は、[[瓜州県|瓜]]・沙両州の各仏教寺院に収蔵されていた経巻、文書約四十五万件を秘密裏に沙州(現在の[[甘粛省]][[敦煌市]])に運び、[[莫高窟]]の中に封印した。[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]図書館に、石室本『曹宗寿夫婦施経記』が収められている。
曹宗寿は、[[瓜州県|瓜]]・沙両州の各仏教寺院に収蔵されていた経巻、文書約四十五万件を秘密裏に沙州(現在の[[甘粛省]][[敦煌市]])に運び、[[莫高窟]]の中に封印した。[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]図書館に、石室本『曹宗寿夫婦施経記』が収められている。

2020年8月20日 (木) 00:28時点における版

曹 宗寿(そう そうじゅ、Cao Zong-shou、? - ?)は、北宋時期の曹氏帰義軍節度使の七代目である。曹延禄の族子である。曹宗寿は曹延禄を自殺に追い込み、位を継いだ。

宋真宗咸平5年(1002年)、は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿に金紫光禄大夫、検校太保、使持節沙州刺史にし、御史大夫も兼ねさせ、帰義軍節度使にし、譙郡開国侯に封じ、食邑一千戸を与えた[1]

曹宗寿は、・沙両州の各仏教寺院に収蔵されていた経巻、文書約四十五万件を秘密裏に沙州(現在の甘粛省敦煌市)に運び、莫高窟の中に封印した。ロシアサンクトペテルブルク図書館に、石室本『曹宗寿夫婦施経記』が収められている。

参考文献

  1. ^ 宋史』「真宗紀」