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「曹延禄」の版間の差分

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[[趙匡胤|宋太祖]]の[[太平興国]]5年([[980年]])、検校[[太保]]、[[敦煌市|沙州]][[刺史]]の位を授かり、帰義軍節度使、瓜沙等州観察処置営田押蕃落等使に充てられた<ref>『宋大詔令集』</ref>。
[[趙匡胤|宋太祖]]の[[太平興国]]5年([[980年]])、検校[[太保]]、[[敦煌市|沙州]][[刺史]]の位を授かり、帰義軍節度使、瓜沙等州観察処置営田押蕃落等使に充てられた<ref>『宋大詔令集』</ref>。


[[咸平]]4年([[1001年]])正月戊子、[[真宗 (宋)|宋真宗]]は、曹延禄を'''[[ショウ郡|譙郡]]開国公'''に封じた<ref>『宋史』「沙州伝」</ref>。
[[咸平]]4年([[1001年]])正月戊子、[[真宗 (宋)|宋真宗]]は、曹延禄を'''[[譙郡]]開国公'''に封じた<ref>『宋史』「沙州伝」</ref>。


久しからずして、曹延禄は、親戚の[[曹宗寿]]に殺された。[[宋 (王朝)|宋]]は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿は、帰義軍節度使でありえた。
久しからずして、曹延禄は、親戚の[[曹宗寿]]に殺された。[[宋 (王朝)|宋]]は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿は、帰義軍節度使でありえた。

2020年8月20日 (木) 00:28時点における版

曹 延禄(そう えんろく、Cao Yan-lu、? - ?)は、北宋時期の曹氏帰義軍節度使の六代目である。曹元忠の子である。曹延恭の死後、位を継いだ。

宋太祖太平興国5年(980年)、検校太保沙州刺史の位を授かり、帰義軍節度使、瓜沙等州観察処置営田押蕃落等使に充てられた[1]

咸平4年(1001年)正月戊子、宋真宗は、曹延禄を譙郡開国公に封じた[2]

久しからずして、曹延禄は、親戚の曹宗寿に殺された。は、羈縻政策をもって対峙したので、曹宗寿は、帰義軍節度使でありえた。

参考文献

  1. ^ 『宋大詔令集』
  2. ^ 『宋史』「沙州伝」