コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「衍聖公」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「灝」を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (孔繁灝) - log
16行目: 16行目:


==関連項目==
==関連項目==
* [[孔繁コウ|孔繁灝]]
* [[孔繁灝]]
* [[孔祥珂]]
* [[孔祥珂]]
* [[孔令貽]]
* [[孔令貽]]

2020年8月19日 (水) 07:23時点における版

衍聖公(えんせいこう)は北宋から清にかけての封爵名。孔子の嫡流の子孫が世襲した。

始皇帝は九世の子孫の孔鮒を魯国文通君に封じた。前漢高祖は孔鮒の弟の孔騰を奉祀君に封じた。

その後、儒教が前漢の国学となるとその宣揚のために元帝は十三世の子孫の孔覇関内侯の爵位と褒成君の号を与え、哀帝は十四世の子孫の孔吉を殷紹嘉侯に封じた。平帝1年に十六世の子孫の孔均を褒成侯に封じ、世襲とした。以後、後漢明帝が十八世の子孫の孔損を褒亭侯に封じたのと安帝が十九世の子孫の孔曜を奉聖亭侯に封じたのを除けば、代を通じて褒成侯の爵位が受け継がれた。

その後、三国魏では宗聖侯、南朝宋では奉聖亭侯、北魏では崇聖侯、北斉では恭聖侯と改められた。北周の時に鄒国公に格上げされ、では文帝が鄒国公に封じたが、煬帝のときに紹聖侯に改められた。

では当初は褒聖侯に封じていたが、開元年間に孔子に文宣王の称号が贈られると、褒聖侯も公爵に格上げされ、文宣公と呼ばれるようになった。北宋仁宗至和2年(1055年)に文宣公は衍聖公に改められ、後代に受け継がれた。

1935年国民政府朝の爵位を廃止し、衍聖公を大成至聖先師奉祀官と改めたが、依然として世襲とされている。

脚注

関連項目