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[[1945年]]9月、同副師長兼参謀長となり東北地方へ進軍、遼西軍区副司令員、黒竜江軍区司令員、[[東北野戦軍]]第6縦隊司令員を歴任。[[1948年]]11月には[[第4野戦軍]]第43軍司令員として[[平津戦役]]に参戦。[[1949年]]5月には第15兵団第一副司令員兼参謀長に任じられ、部隊を率いて南下し[[広州市]]の解放に貢献した。広州の解放後、広東軍区副司令員兼参謀長、海防司令員となり、[[海南島]]と[[万山諸島]]の解放を指揮する。
[[1945年]]9月、同副師長兼参謀長となり東北地方へ進軍、遼西軍区副司令員、黒竜江軍区司令員、[[東北野戦軍]]第6縦隊司令員を歴任。[[1948年]]11月には[[第4野戦軍]]第43軍司令員として[[平津戦役]]に参戦。[[1949年]]5月には第15兵団第一副司令員兼参謀長に任じられ、部隊を率いて南下し[[広州市]]の解放に貢献した。広州の解放後、広東軍区副司令員兼参謀長、海防司令員となり、[[海南島]]と[[万山諸島]]の解放を指揮する。


[[ファイル:Chen geng2.jpg|サムネイル|左|1955年国慶節式典において、左から'''洪学智'''・[[蕭華]]・[[粟裕]]・[[陳コウ (軍人)|陳賡]]]]
[[ファイル:Chen geng2.jpg|サムネイル|左|1955年国慶節式典において、左から'''洪学智'''・[[蕭華]]・[[粟裕]]・[[陳賡]]]]


[[1950年]]7月、[[東北辺防軍]]第13兵団副司令員となり、同年10月には[[中国人民志願軍]]副司令員として[[朝鮮戦争]]に参戦、[[1951年]]6月には志願軍後方勤務司令部司令員を兼任した。帰国後の[[1954年]]には人民解放軍[[中国人民解放軍総後勤部|総後方勤務部]]副部長、[[1957年]]に総後方勤務部部長となったが、[[1959年]]、[[彭徳懐]]失脚の影響を受けて地方に左遷され、[[1960年]]から[[吉林省]]農業機械庁庁長、重工業庁庁長を務める。[[文化大革命]]では迫害され、[[1970年]]には農場に[[下放]]されて労働改造を受けた。[[1972年]]に下放は解除、[[1974年]]吉林省石油化工局局長となる。
[[1950年]]7月、[[東北辺防軍]]第13兵団副司令員となり、同年10月には[[中国人民志願軍]]副司令員として[[朝鮮戦争]]に参戦、[[1951年]]6月には志願軍後方勤務司令部司令員を兼任した。帰国後の[[1954年]]には人民解放軍[[中国人民解放軍総後勤部|総後方勤務部]]副部長、[[1957年]]に総後方勤務部部長となったが、[[1959年]]、[[彭徳懐]]失脚の影響を受けて地方に左遷され、[[1960年]]から[[吉林省]]農業機械庁庁長、重工業庁庁長を務める。[[文化大革命]]では迫害され、[[1970年]]には農場に[[下放]]されて労働改造を受けた。[[1972年]]に下放は解除、[[1974年]]吉林省石油化工局局長となる。

2020年8月18日 (火) 00:01時点における版

洪学智
洪学智上将(1955年)
プロフィール
出生: 1913年2月2日
死去: 2006年11月20日
出身地: 中華民国の旗 中華民国河南省(現安徽省
職業: 軍人
各種表記
繁体字 洪學智
簡体字 洪学智
ラテン字 Hong Xuezhi
和名表記: こう がくち
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洪学智1913年2月2日 - 2006年11月20日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。河南省商城県(現安徽省金寨県)生まれ。階級は中国人民解放軍上将

農民家庭に生まれる。1929年5月、中国共産党に入党し、紅軍に参加した。長征後の1936年から紅軍大学(抗日軍政大学、抗大)で学び、抗大支隊長、副大隊長、第4団団長、第5分校副校長を務める。1941年10月新四軍塩阜軍区司令員、1942年には新四軍第3師参謀長に任命。

1945年9月、同副師長兼参謀長となり東北地方へ進軍、遼西軍区副司令員、黒竜江軍区司令員、東北野戦軍第6縦隊司令員を歴任。1948年11月には第4野戦軍第43軍司令員として平津戦役に参戦。1949年5月には第15兵団第一副司令員兼参謀長に任じられ、部隊を率いて南下し広州市の解放に貢献した。広州の解放後、広東軍区副司令員兼参謀長、海防司令員となり、海南島万山諸島の解放を指揮する。

1955年国慶節式典において、左から洪学智蕭華粟裕陳賡

1950年7月、東北辺防軍第13兵団副司令員となり、同年10月には中国人民志願軍副司令員として朝鮮戦争に参戦、1951年6月には志願軍後方勤務司令部司令員を兼任した。帰国後の1954年には人民解放軍総後方勤務部副部長、1957年に総後方勤務部部長となったが、1959年彭徳懐失脚の影響を受けて地方に左遷され、1960年から吉林省農業機械庁庁長、重工業庁庁長を務める。文化大革命では迫害され、1970年には農場に下放されて労働改造を受けた。1972年に下放は解除、1974年吉林省石油化工局局長となる。

1977年中共中央軍事委員会委員、国務院国防工業弁公室主任として中央に復帰した。1980年には総後勤部部長に再任され、1982年には中共中軍委副秘書長。1990年3月から1998年3月まで中国人民政治協商会議全国委員会副主席を務めた。

中共第8期中央委員会委員候補、第11期・第12期中央委員。第12期中央顧問委員会委員。第1期・第5期・第7期全国人民代表大会代表。第5期全人代常務委員会委員。

1955年、上将の階級を授与されたが、人民解放軍の階級制度はその後一旦廃止された。しかし、1988年に制度が復活し、洪学智は1955年に上将となった者の中ではただ一人、再び上将位を授与された。そのため、上将の階級章の三星を合わせて「六星上将」と呼ばれる。朝鮮民主主義人民共和国一級自由独立勲章(2回)、同一級国旗勲章、中華人民共和国一級八一勲章、同一級独立自由勲章、同一級解放勲章。

2006年11月、北京にて死去。子に洪虎(元吉林省長)ら。著作として『抗美援朝戦争回憶』など。

出典

外部リンク

中国人民解放軍
先代
黄克誠
総後方勤務部部長
1957年-1959年
次代
邱会作
先代
張震
総後勤部部長
1980年-1987年
次代
趙南起
先代
王平
総後勤部政治委員
1980年-1987年
次代
劉安元