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[[武定 (東魏)|武定]]5年([[547年]])1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。7年([[549年]])、潁川攻撃の軍に参加して、[[西魏]]の[[王思政]]を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た。
[[武定 (東魏)|武定]]5年([[547年]])1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。7年([[549年]])、潁川攻撃の軍に参加して、[[西魏]]の[[王思政]]を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た。


[[文宣帝|高洋]]が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の[[天保 (北斉)|天保]]元年([[550年]])、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。[[河清]]元年([[562年]])、爵位は安楽公に進んだ。2年([[563年]])、尚書左僕射となった。斉州大中正・監国史をつとめた。[[天統 (北斉)|天統]]3年([[567年]])、尚書令に任じられた。特進となり、宜陽王に封じられた。[[武平 (北斉)|武平]]2年([[571年]])、[[司空]]の位を受けた。[[祖テイ|祖珽]]とのあいだが険悪となり、西兗州刺史として出された。4年([[573年]])、召還されてまた司空となり、[[司徒]]に転じた。母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。7年([[576年]])6月、突然の病のため死去した。享年は70。
[[文宣帝|高洋]]が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の[[天保 (北斉)|天保]]元年([[550年]])、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。[[河清]]元年([[562年]])、爵位は安楽公に進んだ。2年([[563年]])、尚書左僕射となった。斉州大中正・監国史をつとめた。[[天統 (北斉)|天統]]3年([[567年]])、尚書令に任じられた。特進となり、宜陽王に封じられた。[[武平 (北斉)|武平]]2年([[571年]])、[[司空]]の位を受けた。[[祖珽]]とのあいだが険悪となり、西兗州刺史として出された。4年([[573年]])、召還されてまた司空となり、[[司徒]]に転じた。母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。7年([[576年]])6月、突然の病のため死去した。享年は70。


== 人物・逸話 ==
== 人物・逸話 ==

2020年8月17日 (月) 14:12時点における版

趙 彦深(ちょう げんしん、507年 - 576年)は、中国東魏から北斉にかけての人物。本名は隠。は彦淵。本貫南陽郡宛県

経歴

趙奉伯と傅氏のあいだの子として生まれた。幼いころに父を失い、貧しい生活のなかで母に孝事した。はじめ尚書令司馬子如の賤客となり、書写をつとめた。子如は彦深の仕事に誤りがないのに感心して、官庁に入れるために衣服を与えた。書令史に任用されて、1月あまりで正令史となった。

高歓晋陽にいたとき、2人の史を求めると、子如は彦深を推挙した。後に彦深は子如の下で開府参軍をつとめ、水部郎の位を受けた。高澄が尚書令となって人事にあたると、彦深は滄州別駕として出向を命じられたが、固辞して行かなかった。子如が高歓に彦深を大丞相功曹参軍として任用するよう推薦し、高歓の発行する文書の多くは彦深の手で書かれた。彦深の慎重な仕事ぶりは高歓に高く評価された。

武定5年(547年)1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。7年(549年)、潁川攻撃の軍に参加して、西魏王思政を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た。

高洋が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の天保元年(550年)、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。河清元年(562年)、爵位は安楽公に進んだ。2年(563年)、尚書左僕射となった。斉州大中正・監国史をつとめた。天統3年(567年)、尚書令に任じられた。特進となり、宜陽王に封じられた。武平2年(571年)、司空の位を受けた。祖珽とのあいだが険悪となり、西兗州刺史として出された。4年(573年)、召還されてまた司空となり、司徒に転じた。母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。7年(576年)6月、突然の病のため死去した。享年は70。

人物・逸話

  • 彦深が3歳のとき、家人は母の傅氏に再嫁させようとしたが、傅氏は死を誓って許さなかった。
  • 彦深が5歳のとき、傅氏が「家は貧しく子は小さいのに、どうやって生きていくことができよう」と彦深に言った。彦深は泣いて「もし天に哀れみがあるなら、子が大きくなって良い知らせもありましょう」と言った。傅氏は息子の言葉に感動して、涙を流した。後に彦深が太常卿となると、帰宅して朝服も脱がず、まずは母に会って跪き、幼少の露命をつなぎ、母の教えでここにいったことを述べた。母子はともに泣くこと久しかった。傅氏は後に宜陽国太妃となった。
  • 彦深が10歳のとき、司徒崔光に面会して、将来を嘱望された。
  • 彦深の性格は聡明で、書記や会計を得意とし、あまり人と交遊せず、安閑とした暮らしを楽しんだ。いつも人に見られないように自邸の門外を掃き清めていた。
  • 王思政を潁川で包囲したとき、高澄は「わたしは昨夜狩猟の夢を見て、1群の猪に出会った。わたしはそれらを射てことごとく仕留めたが、ただ1頭の大猪だけを仕留めることができなかった。卿がわたしに取るよう言うと、たちまち残った大猪を仕留めて進むことができた」と彦深に言った。潁川が陥落すると、高澄は笑って「夢のしるしだったな」と言って、王思政の佩刀を彦深に与え、「卿が常にこの利を得られるように」と言った。
  • 彦深は東魏・北斉の高氏歴代に仕えて、常に側近にあり、温厚でつつましく、喜怒を顔に出さなかった。皇建年間以後は、礼遇がことに重く、皇帝の引見を受けても、官号で呼ばれて実名を出されなかった。
  • 彦深は人材を推薦するにあたって、実績を重んじて、軽薄な人物は歯牙にもかけなかった。
  • 常山王高演が北斉の政権を握ると、群臣の多くが帝位につくよう勧進したが、彦深はひとり沈黙を守った。高演が王晞に相談し、王晞が彦深に告げると、彦深はやむをえず勧進に動いた。かれの挙動は当時たいへん重んじられていた。

子女

趙彦深には7人の子があり、とくに趙仲将が名を知られた。

  • 趙仲将(草書隷書を得意とした、万年県子、給事黄門侍郎・散騎常侍、開皇年間に吏部郎となり、安州刺史に終わった)
  • 趙叔堅(中書侍郎)

伝記資料