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[[550年]]、北斉が建国されると、都督・東秦州刺史に任じられ、雍州京兆郡覇城県開国男の別封を受けた。[[文宣帝]]に従って[[契丹]]を討った。また[[斛律金]]の下で北征して柔然を討った。斛律金の命で100騎を率いて敵地に深くに偵察に出た。帰還して白道で斛律金の軍と合流すると、北斉軍は綦連猛の情報にもとづいて追撃し、柔然を撃破した。[[556年]]、武衛将軍・儀同三司となった。[[558年]]、武衛大将軍に転じた。[[559年]]、車騎大将軍を加えられた。[[560年]]、石城郡開国伯に封ぜられ、まもなく爵位は君に進んだ。[[561年]]、左右大将軍を領し、[[孝昭帝]]の下で[[奚]]を撃破した。[[563年]]、開府儀同三司を加えられた。[[突厥]]が[[太原市|晋陽]]に迫ると、綦連猛は300騎を率いて偵察に出た。城の北15里行ったところで、敵の先鋒に遭遇し、敵の数が多かったので退避にかかった。敵中にひとりの驍将がいて、突出して戦いを挑んできた。綦連猛はこれを見て、単身これに応じて相対し、俯仰の間に敵将を刺して落馬させ、これを斬った。[[564年]]、武安県開国君の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。[[565年]]、右衛大将軍に転じ、[[武成帝]]の勅命を奉じて、常に[[後主 (北斉)|後主]]の側近にあり、内廷や外省の重要な事項を扱った。[[567年]]、中領軍に任じられた。[[568年]]、領軍将軍に転じ、義寧県開国君の別封を受けた。[[569年]]、余官はもとのまま、并省尚書左僕射となった。并省尚書令・領軍大将軍に任じられ、山陽王に封じられた。
[[550年]]、北斉が建国されると、都督・東秦州刺史に任じられ、雍州京兆郡覇城県開国男の別封を受けた。[[文宣帝]]に従って[[契丹]]を討った。また[[斛律金]]の下で北征して柔然を討った。斛律金の命で100騎を率いて敵地に深くに偵察に出た。帰還して白道で斛律金の軍と合流すると、北斉軍は綦連猛の情報にもとづいて追撃し、柔然を撃破した。[[556年]]、武衛将軍・儀同三司となった。[[558年]]、武衛大将軍に転じた。[[559年]]、車騎大将軍を加えられた。[[560年]]、石城郡開国伯に封ぜられ、まもなく爵位は君に進んだ。[[561年]]、左右大将軍を領し、[[孝昭帝]]の下で[[奚]]を撃破した。[[563年]]、開府儀同三司を加えられた。[[突厥]]が[[太原市|晋陽]]に迫ると、綦連猛は300騎を率いて偵察に出た。城の北15里行ったところで、敵の先鋒に遭遇し、敵の数が多かったので退避にかかった。敵中にひとりの驍将がいて、突出して戦いを挑んできた。綦連猛はこれを見て、単身これに応じて相対し、俯仰の間に敵将を刺して落馬させ、これを斬った。[[564年]]、武安県開国君の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。[[565年]]、右衛大将軍に転じ、[[武成帝]]の勅命を奉じて、常に[[後主 (北斉)|後主]]の側近にあり、内廷や外省の重要な事項を扱った。[[567年]]、中領軍に任じられた。[[568年]]、領軍将軍に転じ、義寧県開国君の別封を受けた。[[569年]]、余官はもとのまま、并省尚書左僕射となった。并省尚書令・領軍大将軍に任じられ、山陽王に封じられた。


綦連猛は[[和士開]]の死後、しばらく朝政を預かり、疑議が提出されるとすべて議論した。[[趙彦深]]は綦連猛を武将の中でも奸佞を憎む人物として認め、朝議のさいには故知を引いて綦連猛の議事を助けた。[[祖テイ|祖珽]]が趙彦深を左遷すると、綦連猛を趙彦深の党与とみなして、光州刺史として出した。綦連猛が牛蘭にいたったとき、告発されて召還され、拘禁された。まもなく釈放されて、王爵を削られ、光州におもむいた。任地では寛容清廉な統治で知られた。淮陰王[[高阿那肱]]は綦連猛と旧交があり、綦連猛が勅命で宮廷に召し出された機会をとらえて寄食させ、引き立てようとはかった。[[韓鳳]]らが告発されると、綦連猛は膠州刺史として出された。まもなく召還され、南兗州の防備にあてられた。[[576年]]、後主が平陽で敗れると、[[鄴]]に召し出されて、[[大将軍]]に任じられた。[[577年]]、北斉が滅び、[[北周]]に入ると、まもなく死去した。
綦連猛は[[和士開]]の死後、しばらく朝政を預かり、疑議が提出されるとすべて議論した。[[趙彦深]]は綦連猛を武将の中でも奸佞を憎む人物として認め、朝議のさいには故知を引いて綦連猛の議事を助けた。[[祖珽]]が趙彦深を左遷すると、綦連猛を趙彦深の党与とみなして、光州刺史として出した。綦連猛が牛蘭にいたったとき、告発されて召還され、拘禁された。まもなく釈放されて、王爵を削られ、光州におもむいた。任地では寛容清廉な統治で知られた。淮陰王[[高阿那肱]]は綦連猛と旧交があり、綦連猛が勅命で宮廷に召し出された機会をとらえて寄食させ、引き立てようとはかった。[[韓鳳]]らが告発されると、綦連猛は膠州刺史として出された。まもなく召還され、南兗州の防備にあてられた。[[576年]]、後主が平陽で敗れると、[[鄴]]に召し出されて、[[大将軍]]に任じられた。[[577年]]、北斉が滅び、[[北周]]に入ると、まもなく死去した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 14:12時点における版

綦連 猛(きれん もう、生年不詳 - 577年頃)は、中国東魏北斉軍人政治家は武児。本貫代郡

経歴

北魏燕郡太守の綦連元成の子として生まれた。綦連氏はもとは姫姓で、戦国時代の末年に乱を避けて塞外に出て、祁連山に居住し、山の名を姓とし、その語が訛って綦連氏を称したと伝えられる。

530年、綦連猛は爾朱栄に召されて洛陽に入り親信となった。爾朱栄が殺害されると、爾朱世隆に従って建州に逃れ、爾朱兆に従って再び洛陽に入った。爾朱兆の下で紇豆陵歩藩を討ち、都督に任じられた。531年、征虜将軍・中散大夫の位を加えられた。爾朱京纏が高歓に帰順したいと考え、綦連猛の父母兄弟がみな山東にいることに目をつけて綦連猛を一緒に誘った。しかし爾朱兆に恩義を受けていた綦連猛は従わなかった。爾朱京纏が刃を突きつけて綦連猛を脅したので、綦連猛は従い、城を去ること50里あまりのところで、爾朱京纏にそむいて再び爾朱兆に帰順した。533年、爾朱兆が敗れると、綦連猛は斛律羌挙らとともに逃亡したが、高歓に捕らえられて、尉景の下に配属された。高歓は爾朱京纏にそむいた件を綦連猛に問いただすと、綦連猛は服事の理を述べ、二心を抱いていないことを明らかにした。高歓は感心して綦連猛を都督に任じた。

東魏に入り、歩落稽が乱を起こすと、綦連猛は覆釜山でこれを撃破した。543年、高歓の下で河陽に向かい、宇文泰邙山で戦った。 544年、平東将軍・中散大夫に任じられた。また中外府帳内都督に転じ、邙山の戦いの功績により、広興県開国君に封じられた。545年、爾朱文暢が乱を起こしたとき、綦連猛は旧主への恩義を思って告発せず、高歓にその罪を罰せられなかった。547年の使者が東魏にやってくると、高澄は綦連猛に館へ向かわせて接待させ、その武芸を披露させた。この年、綦連猛は撫軍将軍となり、石城県開国子の別封を受け、肆州平寇県を食邑とした。

550年、北斉が建国されると、都督・東秦州刺史に任じられ、雍州京兆郡覇城県開国男の別封を受けた。文宣帝に従って契丹を討った。また斛律金の下で北征して柔然を討った。斛律金の命で100騎を率いて敵地に深くに偵察に出た。帰還して白道で斛律金の軍と合流すると、北斉軍は綦連猛の情報にもとづいて追撃し、柔然を撃破した。556年、武衛将軍・儀同三司となった。558年、武衛大将軍に転じた。559年、車騎大将軍を加えられた。560年、石城郡開国伯に封ぜられ、まもなく爵位は君に進んだ。561年、左右大将軍を領し、孝昭帝の下でを撃破した。563年、開府儀同三司を加えられた。突厥晋陽に迫ると、綦連猛は300騎を率いて偵察に出た。城の北15里行ったところで、敵の先鋒に遭遇し、敵の数が多かったので退避にかかった。敵中にひとりの驍将がいて、突出して戦いを挑んできた。綦連猛はこれを見て、単身これに応じて相対し、俯仰の間に敵将を刺して落馬させ、これを斬った。564年、武安県開国君の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。565年、右衛大将軍に転じ、武成帝の勅命を奉じて、常に後主の側近にあり、内廷や外省の重要な事項を扱った。567年、中領軍に任じられた。568年、領軍将軍に転じ、義寧県開国君の別封を受けた。569年、余官はもとのまま、并省尚書左僕射となった。并省尚書令・領軍大将軍に任じられ、山陽王に封じられた。

綦連猛は和士開の死後、しばらく朝政を預かり、疑議が提出されるとすべて議論した。趙彦深は綦連猛を武将の中でも奸佞を憎む人物として認め、朝議のさいには故知を引いて綦連猛の議事を助けた。祖珽が趙彦深を左遷すると、綦連猛を趙彦深の党与とみなして、光州刺史として出した。綦連猛が牛蘭にいたったとき、告発されて召還され、拘禁された。まもなく釈放されて、王爵を削られ、光州におもむいた。任地では寛容清廉な統治で知られた。淮陰王高阿那肱は綦連猛と旧交があり、綦連猛が勅命で宮廷に召し出された機会をとらえて寄食させ、引き立てようとはかった。韓鳳らが告発されると、綦連猛は膠州刺史として出された。まもなく召還され、南兗州の防備にあてられた。576年、後主が平陽で敗れると、に召し出されて、大将軍に任じられた。577年、北斉が滅び、北周に入ると、まもなく死去した。

伝記資料