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「欒書」の版間の差分

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'''欒 書'''(らん しょ、? - [[紀元前573年]])は、[[中国]][[春秋戦国時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の[[政治家]]。[[姓]]は'''姫'''、[[氏]]は'''欒'''、[[諱]]は'''書'''、[[諡]]は'''武'''。'''欒武子'''と呼ばれる。[[欒枝]]の孫、[[欒盾]]の子。晋の[[レイ公 (晋)|厲公]]を弑した。
'''欒 書'''(らん しょ、? - [[紀元前573年]])は、[[中国]][[春秋戦国時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の[[政治家]]。[[姓]]は'''姫'''、[[氏]]は'''欒'''、[[諱]]は'''書'''、[[諡]]は'''武'''。'''欒武子'''と呼ばれる。[[欒枝]]の孫、[[欒盾]]の子。晋の[[公 (晋)|厲公]]を弑した。


[[紀元前597年]]、欒書は晋公室から分かれた名門・欒家の当主として[[邲の戦い]]にも参加したが、この戦いで晋軍は[[荘王 (楚)|荘王]]率いる[[楚 (春秋)|楚]]軍に大敗北を喫し、欒書が佐将を務める下軍も善戦した末に全滅した。
[[紀元前597年]]、欒書は晋公室から分かれた名門・欒家の当主として[[邲の戦い]]にも参加したが、この戦いで晋軍は[[荘王 (楚)|荘王]]率いる[[楚 (春秋)|楚]]軍に大敗北を喫し、欒書が佐将を務める下軍も善戦した末に全滅した。


この戦いの結果、覇権は晋から遠ざかるが、晋は[[景公 (晋)|景公]]のもとで力を蓄え、[[鞍の戦い]]で[[斉 (春秋)|斉]]を破るなどして少しずつ力を取り戻していった。[[紀元前575年]]、景公の死後、[[レイ公 (晋)|厲公]]の代になると、かつて邲の戦いで敗れた楚との間に[[鄢陵の戦い]]が勃発した。この頃には欒書も古参の老臣となっており、'''中軍の将'''(元帥)として参戦し、見事に楚軍を打ち破った。しかし、この勝利に奢った厲公は驕慢になり、当時の晋の朝廷で最大の勢力を持っていた郤氏を族滅した。[[紀元前573年]]、身の危険を感じた欒書は大臣の[[中行偃|荀偃(中行偃)]]と謀って厲公を弑し、周より晋[[襄公 (晋)|襄公]]の曾孫の公孫周を迎えて即位させ、[[悼公 (晋)|悼公]]とした。その直後に欒書は正卿の座を次卿の[[韓厥]]に譲り、政界から引退する。
この戦いの結果、覇権は晋から遠ざかるが、晋は[[景公 (晋)|景公]]のもとで力を蓄え、[[鞍の戦い]]で[[斉 (春秋)|斉]]を破るなどして少しずつ力を取り戻していった。[[紀元前575年]]、景公の死後、[[公 (晋)|厲公]]の代になると、かつて邲の戦いで敗れた楚との間に[[鄢陵の戦い]]が勃発した。この頃には欒書も古参の老臣となっており、'''中軍の将'''(元帥)として参戦し、見事に楚軍を打ち破った。しかし、この勝利に奢った厲公は驕慢になり、当時の晋の朝廷で最大の勢力を持っていた郤氏を族滅した。[[紀元前573年]]、身の危険を感じた欒書は大臣の[[中行偃|荀偃(中行偃)]]と謀って厲公を弑し、周より晋[[襄公 (晋)|襄公]]の曾孫の公孫周を迎えて即位させ、[[悼公 (晋)|悼公]]とした。その直後に欒書は正卿の座を次卿の[[韓厥]]に譲り、政界から引退する。


同じ年に欒書は死去し、家督は嫡子の[[欒黶]]が相続するが、悼公のもとで晋は覇権を確固たるものとした。
同じ年に欒書は死去し、家督は嫡子の[[欒黶]]が相続するが、悼公のもとで晋は覇権を確固たるものとした。

2020年8月17日 (月) 09:47時点における版

欒 書(らん しょ、? - 紀元前573年)は、中国春秋戦国時代政治家欒武子と呼ばれる。欒枝の孫、欒盾の子。晋の厲公を弑した。

紀元前597年、欒書は晋公室から分かれた名門・欒家の当主として邲の戦いにも参加したが、この戦いで晋軍は荘王率いる軍に大敗北を喫し、欒書が佐将を務める下軍も善戦した末に全滅した。

この戦いの結果、覇権は晋から遠ざかるが、晋は景公のもとで力を蓄え、鞍の戦いを破るなどして少しずつ力を取り戻していった。紀元前575年、景公の死後、厲公の代になると、かつて邲の戦いで敗れた楚との間に鄢陵の戦いが勃発した。この頃には欒書も古参の老臣となっており、中軍の将(元帥)として参戦し、見事に楚軍を打ち破った。しかし、この勝利に奢った厲公は驕慢になり、当時の晋の朝廷で最大の勢力を持っていた郤氏を族滅した。紀元前573年、身の危険を感じた欒書は大臣の荀偃(中行偃)と謀って厲公を弑し、周より晋襄公の曾孫の公孫周を迎えて即位させ、悼公とした。その直後に欒書は正卿の座を次卿の韓厥に譲り、政界から引退する。

同じ年に欒書は死去し、家督は嫡子の欒黶が相続するが、悼公のもとで晋は覇権を確固たるものとした。