「紀元前580年」の版間の差分
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* 秦と晋が講和することとなり、令狐で会合しようとした。晋の厲公は先に令狐に到着したが、秦の[[桓公 (秦)|桓公]]は[[黄河]]を渡ろうとしなかった。桓公は王城にあって、史顆を派遣して厲公と河東で盟を交わさせ、厲公は郤犨を派遣して桓公と河西で盟を交わさせた。桓公は帰国するやいなや、晋との盟約を破った。 |
2020年8月17日 (月) 09:46時点における版
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
---|---|
十年紀 |
前600年代 前590年代 前580年代 前570年代 前560年代 |
年 |
前583年 前582年 前581年 紀元前580年 前579年 前578年 前577年 |
紀元前580年は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元174年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前580年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
中国
- 晋の郤犨が使節として魯に赴き、魯の成公と盟を交わした。
- 魯の季孫行父が晋に赴いた。
- 周公楚が伯与と政権を争って敗れ、洛陽を出て晋に亡命した。
- 魯の叔孫僑如が斉に赴いた。
- 晋の郤至が周と鄇の田地を争ったため、簡王は劉の康公と単の襄公に命じて、晋の厲公に訴えさせた。
- 宋の華元が楚に赴き、晋と楚のあいだの和議をまとめさせた。
- 秦と晋が講和することとなり、令狐で会合しようとした。晋の厲公は先に令狐に到着したが、秦の桓公は黄河を渡ろうとしなかった。桓公は王城にあって、史顆を派遣して厲公と河東で盟を交わさせ、厲公は郤犨を派遣して桓公と河西で盟を交わさせた。桓公は帰国するやいなや、晋との盟約を破った。