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東方の土地を制圧した後、武王は西の首都{{仮リンク|豊鎬|label=鎬京|zh|丰镐}}へ戻り、そこで[[周公旦]]と[[召公セキ|召公奭]]をそれぞれ[[太師]]と[[太保]]に任命した。そのため、2人は宮廷でも最も強力な発言力を持つこととなった{{sfnp|Shaughnessy|1997|p=139}}。 |
2020年8月17日 (月) 05:27時点における版
三監の乱 | |
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周王朝の傘下の諸侯国(緑)と反乱軍の(赤)おおよその支配領域 | |
戦争: | |
年月日:紀元前1042年 - 紀元前1039年[1] (3年間) | |
場所:中国の北東部・特に華北平原[2][3] 山東省西部・および江蘇省北部[4] | |
結果:決定的な周王朝の勝利[1][3]
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交戦勢力 | |
周王朝軍[1] | 三監と殷の残党[14] |
指導者・指揮官 | |
三監の乱[1][注 3](さんかんのらん、三監之亂、拼音: )は、紀元前1042年から紀元前1039年にかけて発生した反乱[3]。周公旦に不満を抱く管叔鮮・蔡叔度・霍叔処等の兄弟や、殷の遺民らによって引き起こされた[8]。
殷王朝の滅亡後、周の武王は自身の弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処を殷の故地に封じさせて、殷の遺民を監視させた[史 1]。これを三監と呼ぶ[注 4][1]。武王は若くして死し、幼い子の成王が即位して、武王の弟である周公旦が摂政となった。然し、三監らは周公旦が幼い武王から王位の簒奪を目論んでいると考え、怒りを呼んだ[25]。多くの分離主義の東の諸侯や滅亡した殷王朝の支持者とともに、武庚の下で同盟し[16][3]、東夷や淮夷等の民族も加まり[8]、周公旦に対して反乱を起こした。周公旦は反乱を鎮めるために「東征」して、3年で反周王朝勢力を敗北させ、首謀者らを殺害したり、権限を剥奪したりした。反乱の鎮圧により、中原を周王朝の支配下に組み入れ[3][1]、封建制を確立させた[5][26]。
エドワード・ルイス・ショーネシーはこの反乱を「a succession crisis that has come to be seen as defining moment not only for the Western Zhou dynasty but for the entire history of Chinese statecraft」と呼んだ[27]。
発端
紀元前1059年、水星・金星・火星・木星・土星が中国北部の北西の空に集まるという非常に珍しい現象が起きた(この現象は合と呼ばれる)。これを周の人々は非常に重要な兆候であると受け止められ、周王が天命を受けたと解釈された。文王は遂に王号を名乗った。殷王朝から独立し、中華を統一するための戦闘を始めた[28]。周は文王のもと、渭水渓谷周辺の周を取り囲む諸侯を討伐した[史 2][29]。文王の死後、子の武王は殷王朝を牧野の戦いで打ち負かし、殷の都の殷墟を陥落させた[30][31][32]。
周王朝は古い殷王朝の統治を取って変わったが、不確実性と不安が残った[33]。中原の諸侯らは殷王朝の復古を望まなかった。然し、東部の諸侯らはほとんどが未だに殷王朝に忠誠を誓っていて、「野蛮人」とも言える新しい支配者におとなしく従わなかった[34]。周武王はそれを考慮して、最後の殷王である紂王の子である武庚を殷に封じ[史 3][35]、東の副統治者とした。武王は殷の王子を通して、東部を統治することを望んだ。武王は殷の遺民らによる反乱の発生を警戒して、弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処の3人に武庚の統治の補佐と、殷の遺民や東方の諸侯を監視させた[1][13][25][35]。そのため、管叔鮮・蔡叔度・霍叔処は三監とも呼ばれる[36][注 4]。多くの東部民族や現在の山東省に位置する諸侯らは"殷の拠点"とも言えた[37]。それらは2世紀以上に渡り、後期の殷王朝の同盟者や家臣であったため、文化的や政治的な結びつきが強かった[38]。その中で、現在の山東省南部(現在の臨沂市郯城県)に属する徐は、長い間殷王朝からの独立を求めて戦っていたため[39]、周王朝の台頭を歓迎した[13]。
東方の土地を制圧した後、武王は西の首都鎬京へ戻り、そこで周公旦と召公奭をそれぞれ太師と太保に任命した。そのため、2人は宮廷でも最も強力な発言力を持つこととなった[40]。
武王は紀元前1043年に亡くなり、長男の姫誦(成王)が王位を継いだ[35]。周公旦は成王が幼年で執政できないと主張したが、おそらく、これは虚偽の可能性もある。何れにしても、周公旦は成王の摂政となり執政した[19][3]。いくつかの批判はあったにも関わらず、周公旦はなんとか最も重要な役職の座を掴み取り、自身の地位をしっかりと確立させている[9][11][41]。周公旦は、自身を事実上のリーダーとして[33]、召公奭と成王の3人で三頭政治を行った[42]。然し、東方では周公旦が周王朝を事実上乗っ取り、王位を簒奪するのでは無いかとして、三監らが憤慨した[40][史 4][43]。さらに、伝統的な年功序列で考えると、周公旦よりも年上である管叔鮮を摂政とすることが妥当であった[3]。李峰によると、西周時代の伝達(communication)は河南省西部の険しい山岳路を通過するのに40日から60日かかり、「a problem of miscommunication and therefore mistrust between the Zhou commanders stationed on the eastern plain and the new leadership in the capital.」と言われている[1]。周公旦による摂政の2年目である、紀元前1042年、遂に管叔鮮と蔡叔度は、殷の武庚やその支持者とともに反乱を起こした[25][40][43]。
戦闘
反乱を起こした管叔鮮と蔡叔度は、周公旦に対抗して、三監を結束させるために霍叔処にすぐさま大義名分の正しさを納得させた[1]。彼らと殷の残党らの反乱軍には[16]、南東部の多くの独立心のある諸侯国達も加まった[8][22][13]。周王朝の東方領域の多くの諸侯は、周王朝に反対して立ち上がった[3]。その諸侯国の中には戦略的に重要な地域を統率している国もいた。例えば、反乱軍に加担した應は[8]、洛陽平原につながる潁河渓谷の出口の近く、南陽盆地の入口のすぐ近くにあり、長江中部への道路を管理していた[44]。さらに、反乱軍はいくつかの外部の同盟国を獲得ることができた。殷の忠誠者である薄姑と奄に率いられ、山東省の諸侯国のほとんどは反乱軍の勢力に染まった[21][20]。また、淮河地域を支配し、周や殷とのつながりがほとんどない淮夷族さえもが反乱軍に加わった。それらの中には徐も加わっていて[45]、周王朝の最大の敵の1つにまで成長した[46][47]。
東方の諸侯国も全てが反乱に加担したわけではなかった。微子啓率いる宋や[10]、召公奭の子の燕侯克率いる北燕[11]等は周王朝に味方した[24]。他にも前述した東夷の徐も殷王朝の復活を望んでいなかった[13]。『史記』によると、現在の山東省に属する周王朝に味方する諸侯国として、斉と魯を挙げている。然し、これは他の文献等の考古学的な情報源によって証明されていない[48]。
反乱が周王室に伝えられると、成王は自分の叔父たちによる反乱を鎮圧するどうかを決定するために亀甲占いを行った。神託によると「吉」とでたが、国王の側近は皆、鎮圧の困難さを考慮して無視するように提言した。周成王は困難さも認めたが、天命に反することを拒否した。東方の制圧に熱心な周公旦は、おそらく周成王の決定を支持したと考えられている[49]。
東方の周王朝派の諸侯国は、大半の諸侯国との戦闘に耐えなければならなかった。周王朝はその勢力を動員するために多くの時間を必要とするはずであった。しかし、少なくとも2か月で、それらを渭水谷から移動させ、東部平原に着陣した[1]。その結果、反乱軍は1年間、ほとんど抵抗を起こさなかった挑戦されなかった[20]。長い準備の後、周公旦と召公奭は反乱を鎮めるために、2度目の「東征」を開始した。当時の青銅器の碑文によると、成王自身が司令官として対反乱作戦に参加したと記載されていて、当時幼年であったという主張をさらに否定している[41][50]。
周文王・周武王の軍師であった斉太公望の支援を受けて[23]、周王朝軍は反乱の2年目に殷の残党の軍を激しい戦いの後に駆逐し[20]、殷の完全な滅亡と[26]、武庚の処刑を目の当たりにした[43]。三監の主力軍も敗北し、管叔鮮と霍叔処が捕虜となり、蔡叔度は亡命したか追放された[史 5][43]。管叔鮮は処刑され[43]、霍叔処は爵位を剥奪され、庶民となった[1][史 5]。勝利にも関わらず、周公旦は周王朝の領域を越えて位置していた東の反乱軍の同盟国に圧力をかけて、軍事行動を起こした。反乱軍の敗北後すぐに、周王朝軍は現在の山東省に進軍し、周公旦は個人的に逄[20]と薄姑の征服を指揮した[19]。奄も周王朝軍によって攻撃されたが、抵抗することができた。3年目には、成王と周公旦が率いる周王朝軍が淮族に対して遠征を行い[43]、その後再び奄を攻撃し、ついにそれを倒した[43]。全体的に、周公旦の軍隊は周王朝の支配下にある東方の海岸の数人の人々を連れて来て、周王朝の領域を大幅に拡大することになった[3][2]。
影響
周王朝の改革
反乱後、周公旦は周王朝を安定させるため、新しい封建制を確立させた[5]。周王朝の諸侯国が再編された。周王朝の領土のうち、3分の2に周王朝の親族や、忠実な家臣を封じた。殷王室の一族とその同盟国は遠くの領地に移され、周王朝を脅かす存在にはなり得なくなった。周王室の一族が封ざれた領地は、基本的には中国北部の2つの戦略的に重要な地点である黄河と太行山脈に沿った地点であった[51]。「Fengjian enfeoffment system would become the foundation of Zhou rule and the dynasty's crowning achievement」[5]。反乱に参加した管[52]・奄・薄姑[20]・ 蔡は滅亡したが、後者は後に復活することなった[53]。奄と薄姑の領地は、新しく封じられた魯と斉によって併呑された[20]。殷の領土は分割され、一部は衛に統合され[史 6]、殷の移民らは武庚の叔父(紂王の異母兄)である微子啓に与えられた[7][54][史 7]。微子啓は武庚の叔父であったが、反乱中も周王朝に忠実であったため、殷の人々の古代文化の中心地である[55][56] 、宋に封じられた[8][25]。いくつかの新しい諸侯国を封じながら、急速に東夷と淮夷の植民地化も始めた。そのため、周族を東方に定住させ、新しい都市を建設した。その結果、三監の乱は、周王朝と独立した部族や、東部の諸侯国との間の軍事的な紛争を開始させることになり、紀元前771年に西周が滅亡するまで続いた[57][13]。
また、周公旦は周王朝の支配領域が広すぎるため、西にある周の王都鎬京からではは東方までを支配できないことを認めた。そこで、周公旦は東方を周の王の支配下として維持するために東に副都を建設することに決めた。その副都(成周/雒邑)は現在の洛陽の近くにあったとされるが、1つまたは2つの都市が建設されたかどうかは不明である[58]。
政治的な影響
諸侯に対しての土地の再分配、副都の建設、植民地化は周王朝を強化・安定させた。一方、周公旦は反乱を受けて、天命を説明した。天命は周王朝を道徳的かつ霊的に正当化するために、宣伝道具として使用された[59][60]。強力な権限を手に入れた周王朝は繁栄と拡大の時代に入り、紀元前965年から紀元前957年の対楚戦争によって弱体化するまで続いた[61]。三監の乱での周公旦の勝利により、周成王と召公奭は、3年間周王朝を統治した。しかし、周公旦と召公奭は、正しい政府の在り方について対立した。周公旦は実力主義制を主張し、召公奭は反乱を防ぐためにも王室に権力を残す必要性があると主張した[62]。おそらくこの対立の結果として、周公旦は紀元前1036年に政治から引退した[63]。政治の実権を周成王に返上し、召公奭を周王朝一の権力を持つ者として残した[64][19]。
同時に、武庚の反乱の失敗とその後の殷の完全な滅亡により、殷王朝の現実的な復活する可能性は消え去った[7][65]。然し、天命による周王朝の正当化が行われても[59]、殷王朝の残党勢力の周王朝への抵抗は、三監の乱後も続いた。60年後の紀元前979年ごろ、周成王の後継者である周康王の代に、周王朝と山西省の鬼方、陝西省の北方間で戦争が勃発した。北方はGe伯の下でShang diehardsによって支持されたと伝えられていて、おそらく殷王朝の復活のために戦っていたと思われる[12][66][67]。然し、反乱は局地的で小規模のものであったので、殷の残党勢力は二度と周王朝に深刻な打撃を与えることは無かった[6]。
反乱後の評価
周公旦は後に「知恵と謙虚の模範」として崇拝され、孔子によって「偉大な師範」と尊敬されたため[68][69]、周公旦に対する反乱である、三監の乱は非難された。三監らは周公旦の徳によって敗北した「年老いた悪人」と見なされた。この解釈は何世紀にも渡って反乱の道徳的なrenditionsを支配してきた。反逆者に対しては一般的に否定的な見方をされるが、三監に対して再評価を試みようとしした学者もいた。三国時代の有名な文人である嵆康は管叔鮮と蔡叔度についての論文を記し、反乱した兄弟について周公旦の「摂政に相応しい知恵を持つか試すという誠実な理由」があると論じた。嵆康は魏(曹魏)の勤皇家として、三監の乱と寿春三叛を結びつけて、反王朝勢力を非道な摂政(周公旦と司馬懿)と戦った忠実な勢力と見なしている[68]。
異説
清華簡『繋年』第3章には『史記』等とは異なる三監の乱が記述されている[36]。その記載は
である。清華簡によると反乱の主体は三監ではなく商邑(殷の残党)によるものだと読み解けれる[72][史 8]。三監は反乱の加害者ではなく被害者となっていて、反乱によって殺害されたとされている[72][史 8]。また、反乱の鎮圧には周公旦ではなく周成王自らが当たっている[72][史 8]。三監が管叔鮮・蔡叔度・霍叔処であったかも記録されていない[70]。
太保簋によると王(成王)が彔子聖[注 6]を伐ったとあり、太保(召公奭)に討伐の命を出したとある[70]。卿盤によると周公旦は商邑討伐の1将として参加したとある[70]。
三監の乱は管叔鮮・蔡叔度と周公旦の対立によるものと考えられていたが、繋年や金文にはそのような記載は無い[70]。
脚注
注釈
- ^ この奄は北燕とは異なる。曲阜を中心として山東省に存在した[19]。このYan はGaiとも呼ばれる[20]。
- ^ Cui ShuやLiu Qiyu等の一部の学者らは霍叔処が反乱への加担をしたことに否定的な意見を持っている。周公旦の兄弟で、反乱を起こしたのは管叔鮮と蔡叔度の2人のみと考えられてもいる[1]。
- ^ "Three Overseers"[1]や"Three Governors"とも[5]言われている。
- ^ a b ここでは三監を英語版ウィキペディアの記載に沿って管叔鮮・蔡叔度・霍叔処としている。しかし、一説では管叔鮮・蔡叔度・武庚の3人となっている[36]。
- ^ 彔子耿は武庚のことである[70]。
- ^ 彔子聖は武庚(彔子耿)のことである[70]。また王子聖とも名乗っている[70]。
出典
書籍
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一次資料
- ^ 『史記』管蔡世家於是封叔鮮于管,封叔度於蔡:二人相紂子武庚禄父,治殷遺民。封叔旦於魯而相周,為周公。封叔振鐸於曹,封叔武於成,封叔処於霍。康叔封・冉季載皆少,未得封。
- ^ 『史記』周本紀明年,伐犬戎。明年,伐密須。明年,敗耆国。殷之祖伊聞之,懼,以告帝紂。紂曰:「不有天命乎?是何能為!」明年,伐邘。明年,伐崇侯虎。而作豊邑,自岐下而徙都豊。明年,西伯崩,太子発立,是為武王。
- ^ 『史記』周本紀封商紂子禄父殷之餘民。武王為殷初定未集,乃使其弟管叔鮮・蔡叔度相禄父治殷。
- ^ 『史記』管蔡世家蔡叔疑周公之為不利於成王,乃挾武庚以作乱。
- ^ a b 『史記』管蔡世家周公旦承成王命伐誅武庚,殺管叔,而放蔡叔,遷之,與車十乗,徒七十人従。
- ^ 『史記』衛康叔世家第七周公旦以成王命興師伐殷,殺武庚禄父・管叔,放蔡叔,以武庚殷餘民封康叔為衛君,居河・淇間故商墟。
- ^ 『史記』宋微子世家第八周公既承成王命誅武庚,殺管叔,放蔡叔,乃命微子開代殷後,奉其先祀,作微子之命以申之,国于宋。微子故能仁賢,乃代武庚,故殷之餘民甚戴愛之。
- ^ a b c 清華簡『繋年』第3章「周武王既克殷,乃設三監于殷。武王陟,商邑興反,殺三監而立彔子耿。成王践伐商邑,殺彔子耿」
参考文献
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