「孝公 (斉)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 邳郗郯郴などの改名に伴うリンク修正依頼 (邾) - log |
||
32行目: | 32行目: | ||
前643年、桓公が死去すると、太子昭以外の5人の公子([[斉侯無詭|無詭]]、元(後の[[恵公 (斉)|恵公]])、潘(後の[[昭公 (斉)|昭公]])、商人(後の[[懿公 (斉)|懿公]])、雍)が後継を争ったが、桓公の寵臣であった[[易牙]]と[[豎刁]]が公子無詭を斉公に擁立したため、太子昭は宋に亡命した。 |
前643年、桓公が死去すると、太子昭以外の5人の公子([[斉侯無詭|無詭]]、元(後の[[恵公 (斉)|恵公]])、潘(後の[[昭公 (斉)|昭公]])、商人(後の[[懿公 (斉)|懿公]])、雍)が後継を争ったが、桓公の寵臣であった[[易牙]]と[[豎刁]]が公子無詭を斉公に擁立したため、太子昭は宋に亡命した。 |
||
前642年春、宋の襄公は[[曹 (春秋)|曹]]・[[衛]]・[[ |
前642年春、宋の襄公は[[曹 (春秋)|曹]]・[[衛]]・[[邾]]の連合軍を率いて斉に攻め入り、太子昭の帰国と斉公即位を援助した。 |
||
3月、諸侯連合軍の圧力に屈した大夫の一派は無詭を暗殺し、太子昭を迎え入れようとした。しかしその他の4公子の支持者たちは軍を発して太子昭の軍を迎え討ち、宋に追い返した。 |
3月、諸侯連合軍の圧力に屈した大夫の一派は無詭を暗殺し、太子昭を迎え入れようとした。しかしその他の4公子の支持者たちは軍を発して太子昭の軍を迎え討ち、宋に追い返した。 |
2020年8月17日 (月) 05:16時点における版
孝公 姜昭 | |
---|---|
斉 | |
第18代公 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 前642年 - 前633年 |
姓・諱 | 姜昭 |
諡号 | 孝公 |
生年 | 不詳 |
没年 | 前633年 |
父 | 桓公 |
母 | 鄭姫 |
后妃 | 孟姫 |
孝公(こうこう)は、春秋時代の斉の第18代君主。桓公の子、母は鄭の公女。子の名は不詳。
即位
→詳細は「桓公の後継者争い」を参照
桓公と管仲は素質がある公子昭を太子とし、宋の襄公を後見役とした。
前643年、桓公が死去すると、太子昭以外の5人の公子(無詭、元(後の恵公)、潘(後の昭公)、商人(後の懿公)、雍)が後継を争ったが、桓公の寵臣であった易牙と豎刁が公子無詭を斉公に擁立したため、太子昭は宋に亡命した。
前642年春、宋の襄公は曹・衛・邾の連合軍を率いて斉に攻め入り、太子昭の帰国と斉公即位を援助した。
3月、諸侯連合軍の圧力に屈した大夫の一派は無詭を暗殺し、太子昭を迎え入れようとした。しかしその他の4公子の支持者たちは軍を発して太子昭の軍を迎え討ち、宋に追い返した。
5月、宋の襄公は再度軍を発し、4公子の軍勢を甗(現在の山東省済南市歴城区)で撃破すると、太子昭はついに斉の都の臨淄に入り斉公に即位した。この動乱以降、斉の国力は衰え、桓公の勝ち取った覇権は終焉し、今まで放置されていた亡父の桓公の遺骸がようやく埋葬された。
前633年、孝公は没してその子が後を継ぐはずだったが、孝公の異母弟の公子潘が衛の公子開方の援助で、甥でもある孝公の子を弑して自らが位についた。
脚注
孝公
| ||
爵位・家督 | ||
---|---|---|
先代 斉侯無詭 |
斉の公 紀元前642年 - 紀元前633年 |
次代 恵公 |