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[[代郡]][[太守]]の韋英の子として生まれた。幼くして明敏で、早熟な人物であり、郷里の人々に尊重された。学問を好み、騎射を得意とした。[[527年]]([[孝昌]]3年)、太尉府法曹参軍を初任とした。しばらくして直後に転じ、明威将軍・[[雍州]]治中に任じられ、仮の鎮遠将軍・防城州将となった。諫議大夫・冠軍将軍を歴任した。
[[代郡]][[太守]]の韋英の子として生まれた。幼くして明敏で、早熟な人物であり、郷里の人々に尊重された。学問を好み、騎射を得意とした。[[527年]]([[孝昌]]3年)、太尉府法曹参軍を初任とした。しばらくして直後に転じ、明威将軍・[[雍州]]治中に任じられ、仮の鎮遠将軍・防城州将となった。諫議大夫・冠軍将軍を歴任した。


[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)、[[宇文泰]]が[[丞相]]となると、韋瑱は[[前将軍]]・太中大夫の位を加えられ、長安県男に封じられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を加えられた。使持節・都督[[南郢州]]諸軍事・南郢州[[刺史]]として出向した。再び入朝して行台左丞となった。[[537年]]([[大統]]3年)、宇文泰に従って[[弘農郡|弘農]]奪回に参加し、[[沙苑の戦い]]に参戦して、衛大将軍・左光禄大夫の位を加えられた。[[538年]](大統4年)、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]に参戦して、爵位を[[子爵]]に進められた。[[542年]](大統8年)、[[東魏]]の[[高歓]]が[[隰州|汾州]]や[[絳州]]に侵入してくると、韋瑱は宇文泰に従って防戦した。侵攻を撃退すると、韋瑱は本官のまま蒲津関に駐屯し、中潬城主を兼ねた。ほどなく[[蒲州 (山西省)|蒲州]]総管府長史に任じられた。しばらくして[[長安]]に召還され、鴻臚卿に任じられた。名望ある一族の出身で、郷里の兵を率いていたことから、帥都督の位を加えられた。大都督・通直散騎常侍に転じ、行京兆郡事をつとめた。車騎大将軍・[[儀同三司]]・[[散騎常侍]]の位に進められた。
[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)、[[宇文泰]]が[[丞相]]となると、韋瑱は[[前将軍]]・太中大夫の位を加えられ、長安県男に封じられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を加えられた。使持節・都督[[南郢州]]諸軍事・南郢州[[刺史]]として出向した。再び入朝して行台左丞となった。[[537年]]([[大統]]3年)、宇文泰に従って[[弘農郡|弘農]]奪回に参加し、[[沙苑の戦い]]に参戦して、衛大将軍・左光禄大夫の位を加えられた。[[538年]](大統4年)、[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]に参戦して、爵位を[[子爵]]に進められた。[[542年]](大統8年)、[[東魏]]の[[高歓]]が[[隰州|汾州]]や[[絳州]]に侵入してくると、韋瑱は宇文泰に従って防戦した。侵攻を撃退すると、韋瑱は本官のまま蒲津関に駐屯し、中潬城主を兼ねた。ほどなく[[蒲州 (山西省)|蒲州]]総管府長史に任じられた。しばらくして[[長安]]に召還され、鴻臚卿に任じられた。名望ある一族の出身で、郷里の兵を率いていたことから、帥都督の位を加えられた。大都督・通直散騎常侍に転じ、行京兆郡事をつとめた。車騎大将軍・[[儀同三司]]・[[散騎常侍]]の位に進められた。


[[555年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]2年)、宇文氏の姓を賜った。[[556年]](恭帝3年)、都督[[瓜州]]諸軍事・瓜州刺史に任じられた。瓜州は[[西域]]に通じる交通の要衝で、前後の刺史たちの多くが賄賂を受け取り、北方民族の侵攻にも対処できなかった。韋瑱は清廉で、武略を兼ね備え、贈物を一切受け取ることがなかった。北方民族もかれをはばかって、攻撃してこようとしなかった。
[[555年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]2年)、宇文氏の姓を賜った。[[556年]](恭帝3年)、都督[[瓜州]]諸軍事・瓜州刺史に任じられた。瓜州は[[西域]]に通じる交通の要衝で、前後の刺史たちの多くが賄賂を受け取り、北方民族の侵攻にも対処できなかった。韋瑱は清廉で、武略を兼ね備え、贈物を一切受け取ることがなかった。北方民族もかれをはばかって、攻撃してこようとしなかった。

2020年8月17日 (月) 05:11時点における版

韋 瑱(い てん/い ちん、500年 - 560年)は、西魏北周官僚軍人は世珍。本貫京兆郡杜陵県

経歴

代郡太守の韋英の子として生まれた。幼くして明敏で、早熟な人物であり、郷里の人々に尊重された。学問を好み、騎射を得意とした。527年孝昌3年)、太尉府法曹参軍を初任とした。しばらくして直後に転じ、明威将軍・雍州治中に任じられ、仮の鎮遠将軍・防城州将となった。諫議大夫・冠軍将軍を歴任した。

534年永熙3年)、宇文泰丞相となると、韋瑱は前将軍・太中大夫の位を加えられ、長安県男に封じられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を加えられた。使持節・都督南郢州諸軍事・南郢州刺史として出向した。再び入朝して行台左丞となった。537年大統3年)、宇文泰に従って弘農奪回に参加し、沙苑の戦いに参戦して、衛大将軍・左光禄大夫の位を加えられた。538年(大統4年)、河橋の戦いに参戦して、爵位を子爵に進められた。542年(大統8年)、東魏高歓汾州絳州に侵入してくると、韋瑱は宇文泰に従って防戦した。侵攻を撃退すると、韋瑱は本官のまま蒲津関に駐屯し、中潬城主を兼ねた。ほどなく蒲州総管府長史に任じられた。しばらくして長安に召還され、鴻臚卿に任じられた。名望ある一族の出身で、郷里の兵を率いていたことから、帥都督の位を加えられた。大都督・通直散騎常侍に転じ、行京兆郡事をつとめた。車騎大将軍・儀同三司散騎常侍の位に進められた。

555年恭帝2年)、宇文氏の姓を賜った。556年(恭帝3年)、都督瓜州諸軍事・瓜州刺史に任じられた。瓜州は西域に通じる交通の要衝で、前後の刺史たちの多くが賄賂を受け取り、北方民族の侵攻にも対処できなかった。韋瑱は清廉で、武略を兼ね備え、贈物を一切受け取ることがなかった。北方民族もかれをはばかって、攻撃してこようとしなかった。

557年、北周が建国されると、韋瑱は平斉県伯の爵位に進められた。刺史の任期を満了して長安に帰還するにあたって、瓜州の官吏や民衆たちが韋瑱を慕って見送ろうと追ってきたため、十数日も足止めされてようやく出境できた。このことを明帝に賞賛され、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進められた。560年武成2年)に死去した。享年は61。岐宜二州刺史の位を追贈された。は恵といった。567年天和2年)、公に追封された。

子女

  • 韋峻(後嗣、車騎大将軍・儀同三司)
  • 韋師

伝記資料