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高慎の後妻の[[李昌儀]]は李徽伯の娘で、容姿に優れ、聡明で読み書きができ、また馬術が得意だった。ただ、彼女は高慎が[[沙門]]の顕公と夜毎に語らうのを厭い、顕公を殺害させるような嫉妬深い面があった<ref>『[[北史]]』巻31 列伝第19「慎後妻趙郡李徽伯女也、艶且慧、兼善書記、工騎乗」。</ref>。ところが、高澄が美貌で知られた李昌儀に関係を迫るという事件が発生した。李昌儀が抵抗したため、彼女の服はすべて破られた<ref>『[[北史]]』巻31 列伝第19「文襄聞其美、挑之、不従、衣尽破裂」。</ref>。 |
高慎の後妻の[[李昌儀]]は李徽伯の娘で、容姿に優れ、聡明で読み書きができ、また馬術が得意だった。ただ、彼女は高慎が[[沙門]]の顕公と夜毎に語らうのを厭い、顕公を殺害させるような嫉妬深い面があった<ref>『[[北史]]』巻31 列伝第19「慎後妻趙郡李徽伯女也、艶且慧、兼善書記、工騎乗」。</ref>。ところが、高澄が美貌で知られた李昌儀に関係を迫るという事件が発生した。李昌儀が抵抗したため、彼女の服はすべて破られた<ref>『[[北史]]』巻31 列伝第19「文襄聞其美、挑之、不従、衣尽破裂」。</ref>。 |
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高慎は高澄らに対する恨みが積もって崔暹を弾劾したが、その内容の多くはでっち上げであった。高歓の譴責を受け、不安がつのった高慎は、[[北豫州]]刺史として任地に赴くと、[[虎牢関|虎牢]]に拠って西魏に降伏した。[[ |
高慎は高澄らに対する恨みが積もって崔暹を弾劾したが、その内容の多くはでっち上げであった。高歓の譴責を受け、不安がつのった高慎は、[[北豫州]]刺史として任地に赴くと、[[虎牢関|虎牢]]に拠って西魏に降伏した。[[邙山の戦い]]のとき、高慎の妻子も西魏に亡命しようとしたが、道中で捕らえられた。高歓は高氏一族の勲功を思って、高慎の子孫のみを罰するにとどめた。高慎は西魏の侍中・[[司徒]]となり、[[太尉]]に転じた。 |
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李昌儀は高澄により恩赦を受け、高澄に側室として再婚した。 |
李昌儀は高澄により恩赦を受け、高澄に側室として再婚した。 |
2020年8月17日 (月) 05:04時点における版
高 慎(こう しん、497年以後[1] - ?)は、中国の南北朝時代の官員・政治家。北魏・東魏・西魏を渡り歩いた。字は仲密。本貫は渤海郡蓨県。高乾の弟。
経歴
高翼の次男として生まれた。若い頃から経書や史書を渉猟して、兄弟たちとは志向が異なっており、そのため父親に偏愛された。531年、滄州刺史・東南道行台尚書に任じられた。532年、光州刺史に転じ、驃騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。そのため政策は厳酷で、官吏や民衆を苦しめた。533年、兄の高乾が死ぬと、高慎は州を捨ててひそかに高歓に帰順しようとしたが、孝武帝の命により青州でその帰路を絶たれた。高慎は間道を通って晋陽に到着し、高歓の下で大行台左丞となり、尚書に転じて、威権をふるった。安州が高歓に従わなかったので、高慎が行台僕射となって安州を平定した。537年、侍中に任ぜられ、開府の位を加えられた。
538年、兗州刺史として出向した。まもなく御史中尉として召されると、御史を任用するのに、親戚や郷里の者たちを情実で任用したので、高澄に改選された。高慎の前妻は吏部郎中の崔暹の妹であったが、高慎に捨てられて離縁した。崔暹は高澄の信任を受けており、妹に対する仕打ちのために高慎を敵視した。
高慎の後妻の李昌儀は李徽伯の娘で、容姿に優れ、聡明で読み書きができ、また馬術が得意だった。ただ、彼女は高慎が沙門の顕公と夜毎に語らうのを厭い、顕公を殺害させるような嫉妬深い面があった[2]。ところが、高澄が美貌で知られた李昌儀に関係を迫るという事件が発生した。李昌儀が抵抗したため、彼女の服はすべて破られた[3]。
高慎は高澄らに対する恨みが積もって崔暹を弾劾したが、その内容の多くはでっち上げであった。高歓の譴責を受け、不安がつのった高慎は、北豫州刺史として任地に赴くと、虎牢に拠って西魏に降伏した。邙山の戦いのとき、高慎の妻子も西魏に亡命しようとしたが、道中で捕らえられた。高歓は高氏一族の勲功を思って、高慎の子孫のみを罰するにとどめた。高慎は西魏の侍中・司徒となり、太尉に転じた。
李昌儀は高澄により恩赦を受け、高澄に側室として再婚した。