「京観」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「テキ方進」→「翟方進」、「テキ義」→「翟義」の改名に伴うリンク修正依頼 (翟義) - log |
|||
2行目: | 2行目: | ||
'''京観'''(けいかん)とは、[[中国の歴史|古代中国]]において[[戦争]]で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し[[塚]]を作り、戦勝の記念碑とする風習。「京観」という表記そのものは「高く作り上げた見はらし台」と言った程度の意味。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[新唐書]]』などにもこの表現がみられる。 |
'''京観'''(けいかん)とは、[[中国の歴史|古代中国]]において[[戦争]]で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し[[塚]]を作り、戦勝の記念碑とする風習。「京観」という表記そのものは「高く作り上げた見はらし台」と言った程度の意味。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[新唐書]]』などにもこの表現がみられる。 |
||
中国ではかなり古い時代から京観が作られたと推測されている<ref>雷聞は古い民族では戦争俘虜を殺害してその遺骸を祭祀に用いることで、自らを強化したり敵の鎮魂になると信じていた形跡があり、京観構築も原始以来の人類学的視野の中で研究すべきであると提言している(P240-241)。</ref>。記録上の初出は『[[春秋左氏伝]]』宣公12年([[紀元前597年]])に[[ |
中国ではかなり古い時代から京観が作られたと推測されている<ref>雷聞は古い民族では戦争俘虜を殺害してその遺骸を祭祀に用いることで、自らを強化したり敵の鎮魂になると信じていた形跡があり、京観構築も原始以来の人類学的視野の中で研究すべきであると提言している(P240-241)。</ref>。記録上の初出は『[[春秋左氏伝]]』宣公12年([[紀元前597年]])に[[邲の戦い]]で[[晋 (春秋)|晋]]に勝利した[[楚 (春秋)|楚]]において、大臣の[[潘党]]が[[荘王 (楚)|荘王]]に対して「君盍築武軍而收晉尸以爲京観。臣聞克敵必示子孫、以無忘武功。」(「武軍として晋軍の死骸で京観を築くのはいかがでしょう。敵を撃破したときには子孫にそのことを示し、武功を忘れさせないようにすると、私は聞いております」)と勧めたところ、王は「(京観は)古来より明王が不敬の者を討った時にその鯨鯢(遺体もしくは首級)の上に土を盛って刑罰にしたもので、晋にそこまでの罪はなく民は忠誠を尽くして君命に命を捧げた者である」としてこれを斥けたとされる<ref>雷論文P235(記事の訳文は訳者による)</ref>。考古学的には[[河北省]][[易県]][[燕下都遺址]]にある高さ10m・直径数十mの円形の版築をした烽火台の遺構の中から2000人分の人頭骨が出土している。骨には戦闘による痕跡のあるものや鏃が付いたままのものもあることから、[[紀元前284年]]に[[燕 (春秋)|燕]]の[[楽毅]]が[[田斉|斉]]を破った時の斉軍の首級であるとする説もある(烽火台は全部で14基あるため、3万人近い人頭骨が埋められた可能性がある)<ref>雷論文P236</ref>。 |
||
時には10万人規模で兵を殺し、京観を作ったとされる<ref>[[黄巾の乱]]の時に[[皇甫嵩]]らが[[張角]]の弟・[[張宝]]を討った際に、討ち取った十数万人の首で京観を作ったことが、『[[後漢書]]』皇甫嵩伝に記されている。</ref>。これは[[戦争|戦]]によって討ち取った敵兵の数を誇るためだとも、[[平和|太平]]を保つことの大切さへの戒めともいわれている([[春秋左氏伝]]宣公十二年)。また、[[前漢]]末期に[[王莽]]の簒奪の動きに反発した[[翟義]]らが反乱を起こして鎮圧された時に、王莽は翟義以下の首で反乱の主要地点である5か所に京観を作って標木を建てさせて地方官が管理するように命じており<ref>『[[漢書]]』[[翟方進]]伝附翟義伝</ref>、国家による官民に対する威嚇効果もあったと考えられている<ref>なお、このうちの1つ圉県(後に滑州韋城県)に築かれたものは[[唐]]の時代にも現存しており、[[李吉甫]]が『[[元和郡県図志]]』の中でその様子を記している。まだ、同書の漢州徳陽県の項にも『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』[[鄧艾]]伝に記された鄧艾が[[蜀漢の滅亡|綿竹の戦い]]の際に戦死した[[蜀漢]]の将兵を埋めて作ったとされる京観についても記載している。</ref><ref>雷論文P236-239</ref>。 |
時には10万人規模で兵を殺し、京観を作ったとされる<ref>[[黄巾の乱]]の時に[[皇甫嵩]]らが[[張角]]の弟・[[張宝]]を討った際に、討ち取った十数万人の首で京観を作ったことが、『[[後漢書]]』皇甫嵩伝に記されている。</ref>。これは[[戦争|戦]]によって討ち取った敵兵の数を誇るためだとも、[[平和|太平]]を保つことの大切さへの戒めともいわれている([[春秋左氏伝]]宣公十二年)。また、[[前漢]]末期に[[王莽]]の簒奪の動きに反発した[[翟義]]らが反乱を起こして鎮圧された時に、王莽は翟義以下の首で反乱の主要地点である5か所に京観を作って標木を建てさせて地方官が管理するように命じており<ref>『[[漢書]]』[[翟方進]]伝附翟義伝</ref>、国家による官民に対する威嚇効果もあったと考えられている<ref>なお、このうちの1つ圉県(後に滑州韋城県)に築かれたものは[[唐]]の時代にも現存しており、[[李吉甫]]が『[[元和郡県図志]]』の中でその様子を記している。まだ、同書の漢州徳陽県の項にも『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』[[鄧艾]]伝に記された鄧艾が[[蜀漢の滅亡|綿竹の戦い]]の際に戦死した[[蜀漢]]の将兵を埋めて作ったとされる京観についても記載している。</ref><ref>雷論文P236-239</ref>。 |
2020年8月17日 (月) 04:20時点における版
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 |
京観(けいかん)とは、古代中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習。「京観」という表記そのものは「高く作り上げた見はらし台」と言った程度の意味。『三国志』や『新唐書』などにもこの表現がみられる。
中国ではかなり古い時代から京観が作られたと推測されている[1]。記録上の初出は『春秋左氏伝』宣公12年(紀元前597年)に邲の戦いで晋に勝利した楚において、大臣の潘党が荘王に対して「君盍築武軍而收晉尸以爲京観。臣聞克敵必示子孫、以無忘武功。」(「武軍として晋軍の死骸で京観を築くのはいかがでしょう。敵を撃破したときには子孫にそのことを示し、武功を忘れさせないようにすると、私は聞いております」)と勧めたところ、王は「(京観は)古来より明王が不敬の者を討った時にその鯨鯢(遺体もしくは首級)の上に土を盛って刑罰にしたもので、晋にそこまでの罪はなく民は忠誠を尽くして君命に命を捧げた者である」としてこれを斥けたとされる[2]。考古学的には河北省易県燕下都遺址にある高さ10m・直径数十mの円形の版築をした烽火台の遺構の中から2000人分の人頭骨が出土している。骨には戦闘による痕跡のあるものや鏃が付いたままのものもあることから、紀元前284年に燕の楽毅が斉を破った時の斉軍の首級であるとする説もある(烽火台は全部で14基あるため、3万人近い人頭骨が埋められた可能性がある)[3]。
時には10万人規模で兵を殺し、京観を作ったとされる[4]。これは戦によって討ち取った敵兵の数を誇るためだとも、太平を保つことの大切さへの戒めともいわれている(春秋左氏伝宣公十二年)。また、前漢末期に王莽の簒奪の動きに反発した翟義らが反乱を起こして鎮圧された時に、王莽は翟義以下の首で反乱の主要地点である5か所に京観を作って標木を建てさせて地方官が管理するように命じており[5]、国家による官民に対する威嚇効果もあったと考えられている[6][7]。
魏晋南北朝時代になると戦乱が多発したこと、華北に北方少数民族の政権が相次いで建てられたこともあり、戦功の誇示や人々への威圧の意味を込めてしばしば京観が作られた[8]。その一方で、こうした風潮に対する批判も現れるようになり、東晋の檀道済は捕えた俘虜を悉く殺害して京観を築くべきとの意見を斥けて解放したことで敵方の心を靡かせ[9]、南斉の皇帝東昏侯を討った蕭衍(梁の武帝)は、敵方の遺体を家族に返すように努め、出来なかった者は地方官に命じて手厚く葬らせた[10]。そして、隋を建国した楊堅(文帝)は、京観の代わりに寺院を建立して味方兵士の冥福を祈るとともに敵兵士の「従闇入明」(闇から抜けて明に従うように)を祈ったのである[11]。この動きは、唐の李世民(太宗)によって徹底され、敵味方の戦死者のために昭仁寺など7つの寺を建立したのに続いて、貞観5年(631年)2月14日には新旧問わず京観を破壊するように命じる詔を出したのである[12]。全ての京観が破壊できた訳ではなく、また薛挙が李世民を破った際に唐軍兵士の遺骸で作った京観を破壊する意図も含まれていたとみられているが、実際に各地で京観が破壊されたとみられている[13]。
蕭衍・楊堅・李世民が京観に否定的な態度を示した背景には仏教信仰との関連性が考えられているが、その路線は彼らの後継者に継承された訳ではなく、唐でも7世紀末になると、積極的に京観が築かれるようになり、その後も規模は小さくなりつつも宋・元・明・清でも築かれている[14]。
日本や朝鮮でも中国の故事にならい、「京観」を作った事例が残るが、日本では首塚や耳塚などの類が一般的であり京観そのものはあまり一般的にはならなかったようである。
近代以降も日本では「京観」という言葉が使われる事があったが、この場合は敵兵の死体で作成したものではなく、単に「戦勝の記念碑」、「戦利品」としての意味合いをもつ。
脚注
- ^ 雷聞は古い民族では戦争俘虜を殺害してその遺骸を祭祀に用いることで、自らを強化したり敵の鎮魂になると信じていた形跡があり、京観構築も原始以来の人類学的視野の中で研究すべきであると提言している(P240-241)。
- ^ 雷論文P235(記事の訳文は訳者による)
- ^ 雷論文P236
- ^ 黄巾の乱の時に皇甫嵩らが張角の弟・張宝を討った際に、討ち取った十数万人の首で京観を作ったことが、『後漢書』皇甫嵩伝に記されている。
- ^ 『漢書』翟方進伝附翟義伝
- ^ なお、このうちの1つ圉県(後に滑州韋城県)に築かれたものは唐の時代にも現存しており、李吉甫が『元和郡県図志』の中でその様子を記している。まだ、同書の漢州徳陽県の項にも『三国志』鄧艾伝に記された鄧艾が綿竹の戦いの際に戦死した蜀漢の将兵を埋めて作ったとされる京観についても記載している。
- ^ 雷論文P236-239
- ^ 雷論文P238-242
- ^ 『宋書』檀道済伝
- ^ 『梁書』武帝本紀
- ^ 雷論文P242-247
- ^ 『全唐文』「令諸州剗削京観詔」・『冊府元亀』帝王部「仁慈」・『資治通鑑』
- ^ 雷論文P238-242
- ^ 雷論文P259-261
参考文献
- 雷聞(日本語訳:江川式部)「"京観"から仏寺へ―隋唐時期の戦場遺体の処理と救済―」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2 P234-268
- 清水克行『耳鼻削ぎの日本史』洋泉社、2015年。ISBN 9784800306708。