「斉 (楚漢戦争)」の版間の差分
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[[趙高]]によって秦が衰退すると、かつて秦に滅ぼされた田氏一族の代表である[[田タン|田儋]]らが[[陳勝]]に呼応して反乱軍に参加した。田儋は秦の[[章邯]]に討たれるが、[[田仮]](田建の弟)の短い在位を経て田儋の従弟である[[田栄]]が田儋の子である[[田市|田巿]]を擁立、自らは宰相となって秦への抗戦を続けた。その後秦が滅亡すると、[[項籍|項羽]]の封建によって斉は三分割され、田栄から離反した田氏一族の[[田都]]が斉王に、同じく独自に楚に従った[[田安]](田建の孫)が済北王に封じられた。そして斉は田仮を[[項梁]]が匿ったことを理由に楚に対して援軍を出さなかったため、元の斉王田巿は残る膠東王に格下げとなり、斉の実権を握る田栄には何の恩賞もなかった。不満を持った田栄は田巿を留める一方、田都を撃退して楚に追放した。しかし田巿は項羽を恐れて、膠東に向かい封地につこうとした。これに激怒した田栄は田巿を殺害して、自ら斉王に即位して項羽に対して反乱を起こした。田栄は[[彭越]]を懐柔して残る田安を討たせ再び斉を統一し、さらに同じく封建されず項羽に不満を持つ[[陳余]]と結んで項羽に対して徹底的に抗戦した。これに激怒した項羽は自ら斉討伐に向かい、項羽は田栄を破った。そして田栄が庶民に殺害されると、項羽は田仮を再び斉王に立てた。しかし田栄の弟の[[田横]]が中心となって抵抗を続けた。この時、項羽は多数の斉の捕虜を生き埋めにして殺害していたために、斉は必死になって抵抗し、斉を平定することができなかった。この間に[[劉邦]]が[[蜀郡|蜀]]・[[漢中郡|漢中]]から挙兵し、[[関中]]と[[彭城]]を手にしたために項羽は斉から反転し、劉邦の軍勢と戦うことになった。項羽が斉から撤退すると田横は田栄の子である[[田広]]を斉王として擁立し、自らは宰相となって実権を掌握した。 |
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その後、劉邦配下の[[韓信]]による諸国征伐が開始されるが、劉邦の配下の[[酈食其]]が斉との同盟を結ぶ使者として訪れ、劉邦と斉は同盟する。ところが、韓信は陣営にいた[[説客]]の[[蒯通]]の進言でそれを無視して斉を攻撃してきたため、斉王田広は激怒して酈食其を[[釜茹で]]の刑に処して、韓信の軍勢と戦うことになるが、斉軍は韓信に敗北し続けた。そこで、項羽は援軍として将軍[[龍且]]と亜将[[周蘭]]が率いる20万人の大軍を送ったが、韓信の[[嚢沙の計]](水計)により龍且は[[灌嬰]]の軍勢に討ち取られ、周蘭は[[曹参]]に捕虜にされ、一気に20万人の軍も壊滅した。田広はたまらず逃げ出すものの捕まり、韓信によって処刑された。田横は田広の死を知ると斉王を名乗りしばらく抗戦を続けたが敗れ、彭越などの下を転々として最後は海上の島に逃れた。その後劉邦は田横を召し出そうと使いを送るが、田横は降伏することを恥じて自刎し田斉は完全に滅亡した。 |
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== 歴代君主 == |
== 歴代君主 == |
2020年8月17日 (月) 03:33時点における版
斉(せい、紀元前209年 - 紀元前202年)は、秦朝末期から前漢初期に存在した国家。中国戦国時代の斉は紀元前221年に秦によって滅亡した。秦末民変中に、田儋は斉を復古させ、都城を臨淄(現在の山東省淄博市臨淄区)に置いた。その後田仮・田巿が継いだ。秦が滅び、紀元前206年正月に項羽が諸侯を分封すると、斉は三分された。田都は斉王、田安は済北王、田巿は膠東王となった。田栄が三斉を統一した。田広・田横が後を継いだ。紀元前202年、韓信が劉邦の命令を奉り斉を滅ぼした。そして、韓信が斉王となった。
歴史
趙高によって秦が衰退すると、かつて秦に滅ぼされた田氏一族の代表である田儋らが陳勝に呼応して反乱軍に参加した。田儋は秦の章邯に討たれるが、田仮(田建の弟)の短い在位を経て田儋の従弟である田栄が田儋の子である田巿を擁立、自らは宰相となって秦への抗戦を続けた。その後秦が滅亡すると、項羽の封建によって斉は三分割され、田栄から離反した田氏一族の田都が斉王に、同じく独自に楚に従った田安(田建の孫)が済北王に封じられた。そして斉は田仮を項梁が匿ったことを理由に楚に対して援軍を出さなかったため、元の斉王田巿は残る膠東王に格下げとなり、斉の実権を握る田栄には何の恩賞もなかった。不満を持った田栄は田巿を留める一方、田都を撃退して楚に追放した。しかし田巿は項羽を恐れて、膠東に向かい封地につこうとした。これに激怒した田栄は田巿を殺害して、自ら斉王に即位して項羽に対して反乱を起こした。田栄は彭越を懐柔して残る田安を討たせ再び斉を統一し、さらに同じく封建されず項羽に不満を持つ陳余と結んで項羽に対して徹底的に抗戦した。これに激怒した項羽は自ら斉討伐に向かい、項羽は田栄を破った。そして田栄が庶民に殺害されると、項羽は田仮を再び斉王に立てた。しかし田栄の弟の田横が中心となって抵抗を続けた。この時、項羽は多数の斉の捕虜を生き埋めにして殺害していたために、斉は必死になって抵抗し、斉を平定することができなかった。この間に劉邦が蜀・漢中から挙兵し、関中と彭城を手にしたために項羽は斉から反転し、劉邦の軍勢と戦うことになった。項羽が斉から撤退すると田横は田栄の子である田広を斉王として擁立し、自らは宰相となって実権を掌握した。
その後、劉邦配下の韓信による諸国征伐が開始されるが、劉邦の配下の酈食其が斉との同盟を結ぶ使者として訪れ、劉邦と斉は同盟する。ところが、韓信は陣営にいた説客の蒯通の進言でそれを無視して斉を攻撃してきたため、斉王田広は激怒して酈食其を釜茹での刑に処して、韓信の軍勢と戦うことになるが、斉軍は韓信に敗北し続けた。そこで、項羽は援軍として将軍龍且と亜将周蘭が率いる20万人の大軍を送ったが、韓信の嚢沙の計(水計)により龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭は曹参に捕虜にされ、一気に20万人の軍も壊滅した。田広はたまらず逃げ出すものの捕まり、韓信によって処刑された。田横は田広の死を知ると斉王を名乗りしばらく抗戦を続けたが敗れ、彭越などの下を転々として最後は海上の島に逃れた。その後劉邦は田横を召し出そうと使いを送るが、田横は降伏することを恥じて自刎し田斉は完全に滅亡した。
歴代君主
- 田儋(紀元前209年 - 紀元前208年)
- 田仮(紀元前208年) - 襄王の子で、田建の弟。田儋が戦死すると斉の人間に擁立されるが、田栄により楚へ追放された。
- 田巿(紀元前208年 - 紀元前206年)
- 田都(紀元前206年) - 項羽の論功行賞で分割された斉王になるが、田栄により楚に追放された。
- 田栄(紀元前206年 - 紀元前205年)
- 田仮(復位、紀元前205年) - 田栄敗死後に項羽に再度擁立されるが、田横により再び楚に追放された。
- 田広(紀元前205年 - 紀元前203年)
- 田横(紀元前203年 - 紀元前202年)