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==経歴==
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[[貴州省]][[遵義]]出身。[[鄭珍]]について学んだ。[[1870年]]より[[呉江市|呉江県]]・[[青浦区|青浦県]]の知県を務めた後、[[曽国藩]]の幕僚となり、桐城派の文章を学んだ。[[張裕ショウ|張裕釗]]・[[呉汝綸]]・[[薛福成]]とともに「曽門四弟子」と称された。
[[貴州省]][[遵義]]出身。[[鄭珍]]について学んだ。[[1870年]]より[[呉江市|呉江県]]・[[青浦区|青浦県]]の知県を務めた後、[[曽国藩]]の幕僚となり、桐城派の文章を学んだ。[[張裕釗]]・[[呉汝綸]]・[[薛福成]]とともに「曽門四弟子」と称された。


[[1876年]]、[[郭嵩燾]]がイギリスに公使として赴くと、参事官として同行した。[[ベルギー]]、[[スウェーデン]]、[[ポルトガル]]、[[オーストリア]]を歴訪し、その記録を『西洋雑志』としてまとめた。[[1881年]]、[[何如璋]]の後任の公使として日本に派遣された。[[1884年]]に帰国したものの、[[1887年]]に再び駐日公使に就任した。公使在任中に中国国内ですでに散逸した古典籍の収集に尽力し、『[[古逸叢書]]』としてまとめた。離任時には日本人が列をなして送ったという。帰国後は川東道などの職についた。
[[1876年]]、[[郭嵩燾]]がイギリスに公使として赴くと、参事官として同行した。[[ベルギー]]、[[スウェーデン]]、[[ポルトガル]]、[[オーストリア]]を歴訪し、その記録を『西洋雑志』としてまとめた。[[1881年]]、[[何如璋]]の後任の公使として日本に派遣された。[[1884年]]に帰国したものの、[[1887年]]に再び駐日公使に就任した。公使在任中に中国国内ですでに散逸した古典籍の収集に尽力し、『[[古逸叢書]]』としてまとめた。離任時には日本人が列をなして送ったという。帰国後は川東道などの職についた。

2020年8月16日 (日) 22:48時点における版

黎 庶昌(れい しょしょう、Li Shuchang1837年1897年)、字は蒓斎は、末の外交官。

経歴

貴州省遵義出身。鄭珍について学んだ。1870年より呉江県青浦県の知県を務めた後、曽国藩の幕僚となり、桐城派の文章を学んだ。張裕釗呉汝綸薛福成とともに「曽門四弟子」と称された。

1876年郭嵩燾がイギリスに公使として赴くと、参事官として同行した。ベルギースウェーデンポルトガルオーストリアを歴訪し、その記録を『西洋雑志』としてまとめた。1881年何如璋の後任の公使として日本に派遣された。1884年に帰国したものの、1887年に再び駐日公使に就任した。公使在任中に中国国内ですでに散逸した古典籍の収集に尽力し、『古逸叢書』としてまとめた。離任時には日本人が列をなして送ったという。帰国後は川東道などの職についた。

栄典

著書

  • 『拙尊園叢稿』6巻
  • 『丁亥入都記程』2巻
  • 『西洋雑志』8巻
  • 『古逸叢書』200巻

脚注

  1. ^ 『官報』第2210号「叙任及辞令」1890年11月10日。

出典

先代
何如璋
駐日清国公使
1881年 - 1884年
次代
徐承祖
先代
徐承祖
駐日清国公使
1887年 - 1890年
次代
李経方