「林虎」の版間の差分
m Category:中華人民共和国の政治家を除去; Category:中国人民政治協商会議委員を追加 (HotCat使用) |
m Bot作業依頼: 「ショウ」→「釗」の改名による内部リンク修正依頼 (章士釗) - log |
||
29行目: | 29行目: | ||
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、林虎は[[江西省 (中華民国)|江西]]都督李烈鈞の下に移り、江西陸軍第1師の旅長に任命された。翌年、李烈鈞が[[袁世凱]]打倒のための二次革命([[第二革命]])に参加すると、林は江西討袁軍右翼総司令としてこれに従う。林らは緒戦で善戦したが、最後は物量で勝る[[北京政府]]軍に敗北し、林は日本に亡命した。 |
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、林虎は[[江西省 (中華民国)|江西]]都督李烈鈞の下に移り、江西陸軍第1師の旅長に任命された。翌年、李烈鈞が[[袁世凱]]打倒のための二次革命([[第二革命]])に参加すると、林は江西討袁軍右翼総司令としてこれに従う。林らは緒戦で善戦したが、最後は物量で勝る[[北京政府]]軍に敗北し、林は日本に亡命した。 |
||
同年11月、林虎は東京で[[孫文]](孫中山)と対面し、[[中華革命党]]にも参加した。また、李烈鈞・[[柏文尉]]・[[黄郛]]らと法政学校を創立し、[[寺尾亨]]を校長として擁いた。さらに、大森に「浩然廬」を創設し、日本に亡命してきた革命派士官を受け入れる機関とした。[[1914年]](民国3年)、林は[[章士 |
同年11月、林虎は東京で[[孫文]](孫中山)と対面し、[[中華革命党]]にも参加した。また、李烈鈞・[[柏文尉]]・[[黄郛]]らと法政学校を創立し、[[寺尾亨]]を校長として擁いた。さらに、大森に「浩然廬」を創設し、日本に亡命してきた革命派士官を受け入れる機関とした。[[1914年]](民国3年)、林は[[章士釗]]・[[李根源]]らと[[欧事研究会]]を組織した。その後、[[熊克武]]らとともに[[シンガポール]]へ向かい、黄興らと反袁世凱活動に取り組んだ。 |
||
その後、林虎は[[鈕永建]]とともに広西省へ戻り、広西将軍[[陸栄廷]]との交渉を持つ。これにより、陸の反袁決起に手応えをつかんだ林虎は、雲南の蔡鍔・李烈鈞らと連絡をとっている。[[1915年]](民国4年)12月、[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]から[[護国戦争]]([[第三革命]])が勃発し、陸も後にこれに呼応した。 |
その後、林虎は[[鈕永建]]とともに広西省へ戻り、広西将軍[[陸栄廷]]との交渉を持つ。これにより、陸の反袁決起に手応えをつかんだ林虎は、雲南の蔡鍔・李烈鈞らと連絡をとっている。[[1915年]](民国4年)12月、[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]から[[護国戦争]]([[第三革命]])が勃発し、陸も後にこれに呼応した。 |
2020年8月16日 (日) 22:47時点における版
林虎 | |
---|---|
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1887年10月1日(清光緒13年8月15日) |
死去: |
1960年2月8日 中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市 |
出身地: | 清広西省鬱林州陸川県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 林虎 |
簡体字: | 林虎 |
拼音: | Lín Hǔ |
ラテン字: | Lin Hu |
注音二式: | Lín Hǔ |
和名表記: | りん こ |
発音転記: | リン フー |
林 虎(りん こ)は中華民国の軍人。中国同盟会以来の革命派人士で、後に旧広西派(旧桂系)の軍人となった。旧名は蔭清。字は陰青。父は漢族、母はチワン族(壮族)である。
事跡
中国同盟会へ
父の林寿裳は秀才で江西省に赴任したことから、林虎は父母とともに江西省に移り住んだ。林虎は、15歳の時に江西武備学堂に入学し、李烈鈞、李思広らと同期で学んだ。しかし在学中に、林や李思広ら4人は、学外の悪童4人と喧嘩したため[1]卒業直前に学堂を辞めなければならなくなっている。
その後は、李思広の知人である江西常備中軍統領郭人漳の下で任用された。1905年(光緒31年)、郭が広西省へ転任したことから、林虎もこれに随従している。翌年、黄興が桂林で組織した中国同盟会支部において、林は、郭や蔡鍔[2]らとともに加入した。1907年(光緒33年)、やはり郭に随従して広東省に転任している。辛亥革命では、林虎は革命派の軍に参加し、南京で陸軍部警衛混成団団長に任命された。
反袁世凱の活動
1912年(民国元年)、林虎は江西都督李烈鈞の下に移り、江西陸軍第1師の旅長に任命された。翌年、李烈鈞が袁世凱打倒のための二次革命(第二革命)に参加すると、林は江西討袁軍右翼総司令としてこれに従う。林らは緒戦で善戦したが、最後は物量で勝る北京政府軍に敗北し、林は日本に亡命した。
同年11月、林虎は東京で孫文(孫中山)と対面し、中華革命党にも参加した。また、李烈鈞・柏文尉・黄郛らと法政学校を創立し、寺尾亨を校長として擁いた。さらに、大森に「浩然廬」を創設し、日本に亡命してきた革命派士官を受け入れる機関とした。1914年(民国3年)、林は章士釗・李根源らと欧事研究会を組織した。その後、熊克武らとともにシンガポールへ向かい、黄興らと反袁世凱活動に取り組んだ。
その後、林虎は鈕永建とともに広西省へ戻り、広西将軍陸栄廷との交渉を持つ。これにより、陸の反袁決起に手応えをつかんだ林虎は、雲南の蔡鍔・李烈鈞らと連絡をとっている。1915年(民国4年)12月、雲南省から護国戦争(第三革命)が勃発し、陸も後にこれに呼応した。
反孫文の活動
林虎は、1916年(民国5年)4月に岑春煊が肇慶で成立させた両広護国軍都司令部に加入し、護国軍第6軍軍長に任命された。そして、陸栄廷に従って広東将軍竜済光の討伐に貢献した。同年9月、林は高雷鎮守使に任命されている。
翌年、林虎は陸栄廷から広東陸軍第2軍軍長に任命された。そして、同年11月からの竜の反攻に対処し、1918年(民国7年)春、竜の軍を撃滅した。この功績により、林虎は肇羅陽鎮守使に任命されている。
同年10月、広州軍政府が改組されて7総裁による集団指導制となると、岑春煊・陸栄廷ら旧広西派(旧桂系)が主導権を握り、林は軍政府陸軍部次長に就任した。しかし1920年(民国9年)、孫文を支持する陳炯明軍により旧桂系は敗北し、林も下野した。なおこの時、林虎は孫文からの内応の誘いを蹴っている。
以後も反孫文の活動に従事し、1922年(民国11年)には、孫文に反した陳炯明を補佐して北京政府との連携工作に従事した。1924年(民国13年)5月には、北京政府から広西督弁にも任命されている。しかし1925年(民国14年)、陳炯明は中国国民党の東征を受けて壊滅し、林も軍を撃破されて下野した。
晩年
その後は、かつての部下であった李宗仁と連絡を取りつつも、政界への本格復帰はならなかった。1937年(民国26年)、国民参政会参政員となる。1947年(民国36年)には、立法院立法委員に当選した。
中華人民共和国成立後も林虎は広西に留まっている。広西チワン族自治区政治協商会議副主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員などを歴任している。
1960年(民国59年)2月8日、南寧で病没。享年74(満72歳)。
注
参考文献
- 李微「林虎」中国社会科学院近代史研究所編『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
|
---|