コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ピオルン (駆逐艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 第二次世界大戦の戦役関連記事・テンプレート改名に伴うリンク修正依頼 (第二次世界大戦中の北極海における輸送船団) - log
60行目: 60行目:
[[File:The Polish Navy during the Second World War A2514.jpg|thumb|right|ペットの[[猫]]を抱くピオルンの乗員。1940年撮影。]]
[[File:The Polish Navy during the Second World War A2514.jpg|thumb|right|ペットの[[猫]]を抱くピオルンの乗員。1940年撮影。]]
[[File:Władysław Sikorski decorates crew members of ORP Piorun.jpg|thumb|right|ピオルンの乗員に[[勲章]]を授ける[[ヴワディスワフ・シコルスキ]]首相。[[1941年]]撮影。]]
[[File:Władysław Sikorski decorates crew members of ORP Piorun.jpg|thumb|right|ピオルンの乗員に[[勲章]]を授ける[[ヴワディスワフ・シコルスキ]]首相。[[1941年]]撮影。]]
その後は再び[[大西洋の戦い|大西洋船団]]と北極海を行く [[北極海の戦い|援ソ船団]]の護衛を行った。1941年9月には一時的に[[地中海]]へ向かい、[[マルタ島]]への輸送を行う[[ハルバード作戦]]に護衛艦艇の一隻として参加している<ref name=naval-history.net/>。
その後は再び[[大西洋の戦い|大西洋船団]]と北極海を行く [[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|援ソ船団]]の護衛を行った。1941年9月には一時的に[[地中海]]へ向かい、[[マルタ島]]への輸送を行う[[ハルバード作戦]]に護衛艦艇の一隻として参加している<ref name=naval-history.net/>。


[[1943年]]6月に第24駆逐艦戦隊(24th Destroyer Flotilla)へ移籍し、7月に [[シチリア島]]への上陸作戦([[ハスキー作戦]])へ参加した。続いて[[レッジョ・ディ・カラブリア]]への上陸([[ベイタウン作戦]])を支援、9月の[[サレルノ]]上陸([[アヴァランチ作戦]])にも参加している。以降も11月までイタリア西岸で哨戒と支援を継続した<ref name=naval-history.net/>。
[[1943年]]6月に第24駆逐艦戦隊(24th Destroyer Flotilla)へ移籍し、7月に [[シチリア島]]への上陸作戦([[ハスキー作戦]])へ参加した。続いて[[レッジョ・ディ・カラブリア]]への上陸([[ベイタウン作戦]])を支援、9月の[[サレルノ]]上陸([[アヴァランチ作戦]])にも参加している。以降も11月までイタリア西岸で哨戒と支援を継続した<ref name=naval-history.net/>。

2020年8月16日 (日) 13:15時点における版

ORP ピオルン
ノーブル時代のN級駆逐艦ピオルン
ノーブル時代のN級駆逐艦ピオルン
基本情報
建造所 ジョン・ブラウン・アンド・カンパニー
運用者  ポーランド海軍
 イギリス海軍
級名 N級駆逐艦
建造費 400,963 ポンド 16 シリング
艦歴
発注 1939年4月15日
起工 1939年7月26日
進水 1940年5月7日
就役 1940年11月4日(イギリス海軍;同日ポーランド海軍へ移管)
1946年10月26日(イギリス海軍HMS ノーブルとして)
最期 1955年にスクラップとして売却
要目
基準排水量 1,773 英トン (1,801 トン)
満載排水量 2,384 英トン (2,422 トン)
全長 356.6 ft (108.7 m)
最大幅 35.9 ft (10.9 m)
吃水 12.6 ft (3.8 m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 44,000 shp (33 MW)
最大速力 36 ノット (67 km/h;41 mph)
航続距離 5,500 海里 (10,200 km)
15 ノット(28 km/h;17 mph)時
乗員 士官、兵員183 名
兵装 45口径12cm連装砲×3基
ヴィッカース39口径40mm4連装機銃×1基
45口径10.2cm単装高角砲×1基
エリコン20mm単装機銃×4基
62口径12.7mm4連装機銃×2基
53.3cm5連装魚雷発射管×1基
爆雷投射機×2基
爆雷投下軌条×1基
爆雷×45発
レーダー 285型射撃用
286型対水上
ソナー 124型 探信儀 (ASDIC)
その他 ペナント・ナンバー:G65
テンプレートを表示

ピオルン (ORP Piorun, G65) は、ポーランド海軍駆逐艦N級。艦名はポーランド語雷電の意味。元々はイギリス海軍ネリッサHMS Nerissa)として就役後にポーランド海軍に引き渡された艦であった。

ピオルンはドイツ海軍戦艦ビスマルクに相対し砲戦を交わした逸話で知られる。

艦歴

ピオルンは1939年7月26日にグラスゴークライドバンク英語版ジョン・ブラウン・アンド・カンパニーにて起工、1940年5月7日に進水し同年11月4日にイギリス海軍の「ネリッサ」(HMS Nerissa)として形式的に就役した。そのままネリッサはノルウェーの戦いで戦没したグロムの代替としてポーランド海軍に引き渡され、「ピオルン」(ORP Piorun)と改名された後にエウゲニウシュ・プワウスキ英語版中佐の指揮の下で就役した[1]

45口径10.2cm単装高角砲を操作するピオルンの乗員。1940年撮影。

就役後はイギリス海軍本国艦隊第7駆逐艦戦隊(7th Destroyer Flotilla)に配備され、主に船団護衛に従事した。1941年1月25日、ドイツ海軍戦艦シャルンホルストグナイゼナウを捜索に向かう戦艦ネルソンロドニー巡洋戦艦レパルスの護衛中に悪天候で損傷し、スカパ・フローへ引き返した[1]

クライドバンク大空襲

1941年3月13日から14日にかけて、クライドバンクの街はドイツ空軍機による激しい空襲英語版を受けた。その際、船団護衛任務で発生した損傷を造船所で修理中だったために居合わせたピオルンは対空砲火によって街の防衛に大きく寄与し、戦後の1994年にはクライドバンクにピオルンの乗員の活動を顕彰した記念碑が設置された[2]

対空砲火はドイツ空軍機が目標上空に留まる時間を短縮し、適切な高度に拘束するようにしたことは間違いないにもかかわらず、ドイツ側はどちらの空襲(注:13日・14日両日の空襲)でも対空砲火による損失はなかったと発表している。クライドバンクで「猛爆(Blitz)」を生き残った誰もが、偶然にも当時ジョン・ブラウン社のドックで修理中だったポーランド海軍の駆逐艦による、最初の夜の凄まじい対空砲火のことを忘れることはないと思う。様子を見た数人が伝えているように、ポーランドの砲員たちは弾薬庫をすっかり空にしたのであろうし、彼らの射撃はジョン・ブラウン造船所の被害が幾分か軽くなるよう守ったのかもしれないのだ。(中略)二日目の夜の対空砲火は、ドイツ人とクライドバンク市民双方に前日のものよりも強力であると感じられた。 — I・M・M・マクファイル博士(当時クライドバンクの高等学校校長)[3]

修理完了後は、第10護衛グループ(10th Escort Group)と第14護衛グループ(14th Escort Group)と共に再び船団護衛任務を行った。4月13日、ピオルンと駆逐艦リージョンアイスランド南方でUボートU-108に撃沈された仮装巡洋艦ラージプタナの生存者283名を救助している[1]

戦艦ビスマルク追撃戦

ビスマルクとの交戦後にプリマスへ帰還したピオルンの乗員。

1941年5月22日、ピオルンはフィリップ・ヴィアン英語版大佐率いる第4駆逐艦戦隊英語版(4th Destroyer Flotilla)の僚艦コサックマオリシークズールーと共にグラスゴーからインド洋へ向かう兵員輸送船団WS8Bを護衛していた。5月25日になり、ピオルンを含む戦隊は護衛任務から離れ、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの捜索に参加することになった[4]

ヴィアン大佐の旗艦コサックとシーク、ズールーは戦艦キング・ジョージ五世の、ピオルンとマオリはロドニーの護衛を命じられていたが、戦艦に合流するため航行中にカナダ空軍カタリナ飛行艇からビスマルク発見の報を受け戦隊はビスマルクに接触すべく急行した。波浪のために速力は27ノットを出すのがやっとの状況ではあったが、5月26日午後10時までには直前までビスマルクに触接を行っていた軽巡洋艦シェフィールドと会合しビスマルクの方位を知ることができた[5]

午後10時50分にズールーがビスマルクを発見し、ピオルンを含む戦隊の駆逐艦たちは触接を開始した。ビスマルクはピオルンとマオリに対して砲撃を開始、ピオルンも13,500ヤード(約12,344m)まで距離を詰めるとビスマルクに対して砲撃を行い、約30分にわたって砲撃戦が続いた[6]

ビスマルクに対して砲撃を開始する前に、ピオルンは「我はポーランド人なり」(I am a Pole)という信号を送ったとされる。また別の史料では、砲撃開始の命令は「ポーランドを讃えて三斉射」(Trzy salwy na cześć Polski)だったともいわれている[7][8]

この戦闘で双方に被弾はなかったものの、ビスマルクの第三斉射がピオルンのわずか20ヤード(約18m)に着弾したためプワウスキ艦長は戦闘を中止し、煙幕を張りながら距離を開けた。ピオルンは燃料が極度に不足していたため、搭載する魚雷を発射することなく27日午前5時には帰投を命じられた。プワウスキ艦長は海域を離れることを渋り、イギリスに引き返すまで1時間にわたって留まっていた。ピオルンを除く戦隊によって行われた魚雷攻撃は全て失敗し、最終的にビスマルクは英戦艦との砲戦の末に沈むことになった[1]

地中海

ペットのを抱くピオルンの乗員。1940年撮影。
ピオルンの乗員に勲章を授けるヴワディスワフ・シコルスキ首相。1941年撮影。

その後は再び大西洋船団と北極海を行く 援ソ船団の護衛を行った。1941年9月には一時的に地中海へ向かい、マルタ島への輸送を行うハルバード作戦に護衛艦艇の一隻として参加している[4]

1943年6月に第24駆逐艦戦隊(24th Destroyer Flotilla)へ移籍し、7月に シチリア島への上陸作戦(ハスキー作戦)へ参加した。続いてレッジョ・ディ・カラブリアへの上陸(ベイタウン作戦)を支援、9月のサレルノ上陸(アヴァランチ作戦)にも参加している。以降も11月までイタリア西岸で哨戒と支援を継続した[4]

ノルマンディー上陸作戦

本国へ帰国して修理を行った後、1944年1月にスカパ・フローで第3駆逐艦戦隊(3rd Destroyer Flotilla)へ加わったピオルンは援ソ船団の護衛を行うと共に、ノルウェー所在の船舶への空襲(ベイリーフ作戦)やドイツ海軍の戦艦ティルピッツへの空襲作戦(タングステン作戦)などノルウェー近海で活動を行う空母機動部隊を護衛した[4]

第10駆逐艦戦隊(10th Destroyer Flotilla)へ転籍したピオルンは、僚艦のイギリス海軍のジャベリンターターアシャンティ英語版エスキモーカナダ海軍ハイダヒューロン英語版、ポーランド海軍のブリスカヴィカと共にノルマンディー上陸作戦を支援した。6月9日にピオルンを含む第10駆逐艦戦隊とドイツ海軍の駆逐艦Z24Z32ZH1水雷艇T24との間で戦闘が発生した(ブルターニュ沖海戦)。この海戦で戦隊はZH1を自沈に追い込みZ32を擱座させた。6月13日にはル・アーヴルへ魚雷を輸送中のドイツ掃海艇隊を攻撃し、M343を撃沈し1隻を擱座させ残る全てに損傷を負わせた[4]

ピオルンに乗り込むフランスのレジスタンス。1944年撮影。

その後はビスケー湾でドイツの艦艇掃討に従事し、8月12日に軽巡洋艦ダイアデムと駆逐艦オンズローと共にドイツの機雷原突破船7号(Sperbrecher 7)を沈めた。9月20日にはブリスカヴィカと共にフランスのレジスタンスを支援し、年末までプリマス管区(Plymouth Command)で哨戒と船団護衛を実施した[4]

1945年に入るとピオルンは第8駆逐艦戦隊(8th Destroyer Flotilla)に加わり本国近海で活動を続けた。ドイツ降伏後の6月には第3駆逐艦戦隊へ移り、ノルウェーの再占領を支援した。ピオルンはデッドライト作戦に参加し、接収したUボートの自沈処分を行った[4]

戦後

日本の降伏後、ピオルンは1945年10月に第17駆逐艦戦隊(17th Destroyer Flotilla)に移り、さらにポーランド戦隊(Polish Squadron)で活動した。ピオルンは1946年7月に予備役に編入され翌月にはイギリス海軍に返還されたが、元の「ネリッサ」の名前は既にアルジェリン級掃海艇英語版の一隻に使用されていたため、新たに「ノーブル」(HMS Noble)の名が与えられた。ノーブルことピオルンは、ポーランド海軍艦として218,000マイル(約350,837km)を航海し特筆すべき戦闘の多くに参加した[4]

ノーブルは2年間の係留の後に予備役艦隊で1953年まで留められた。16型フリゲートより効果的な新たな18型対潜フリゲートへの改装が計画されたものの、費用対効果に疑問が呈されたため実行されずノーブルは廃棄が決定した[9]。ノーブルは1955年5月に廃棄リストに載り、同年9月にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション英語版(BISCO)にスクラップとして売却された。ノーブルは曳航された後、同年12月2日に解体地であるダンストン英語版のクレイトン&デイヴィー社(Clayton & Davie Ltd.)へ到着した[4]

脚注

  1. ^ a b c d https://uboat.net/allies/warships/ship/5423.html 2018年8月19日閲覧。
  2. ^ The Clydebank Blitz and the Polish Navy”. POLISH SCOTTISH HERITAGE. 2018年8月19日閲覧。
  3. ^ The Clydebank Blitz and the Polish Navy”. POLISH SCOTTISH HERITAGE. 2018年8月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-10DD-45N-Nerissa.htm 2018年8月19日閲覧。
  5. ^ Charles (2002), p131
  6. ^ Charles (2002), p131
  7. ^ Jerzy Pertek, Wielkie dni małej floty (Great Days of a Small Fleet), Wydawnictwo Poznańskie, 1990.
  8. ^ Damski, Z. Atakuje was Piorun, Wydawnictwo MON, 1981.
  9. ^ Charles (2002), p196

出典

  • Colledge, J. J.; Warlow, Ben (2006) [1969]. Ships of the Royal Navy: The Complete Record of all Fighting Ships of the Royal Navy (Rev. ed.). London: Chatham Publishing. ISBN 978-1-86176-281-8. OCLC 67375475
  • English, John (2001). Afridi to Nizam: British Fleet Destroyers 1937–43. Gravesend, Kent: World Ship Society. ISBN 0-905617-64-9 
  • Friedman, Norman (2006). British Destroyers & Frigates: The Second World War and After. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-86176-137-6 
  • Hodges, Peter; Friedman, Norman (1979). Destroyer Weapons of World War 2. Greenwich: Conway Maritime Press. ISBN 978-0-85177-137-3 
  • Langtree, Charles (2002). The Kelly's: British J, K, and N Class Destroyers of World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-422-9 
  • Lenton, H. T. (1998). British & Empire Warships of the Second World War. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-048-7 
  • March, Edgar J. (1966). British Destroyers: A History of Development, 1892–1953; Drawn by Admiralty Permission From Official Records & Returns, Ships' Covers & Building Plans. London: Seeley Service. OCLC 164893555 
  • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939–1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2 
  • Whitley, M. J. (1988). Destroyers of World War Two: An International Encyclopedia. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-326-1 

関連項目

外部リンク