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翌1942年春に自由ノルウェー軍は[[ロングイェールビーン]]の炭鉱を再開させる{{仮リンク|フリサム作戦|no|Operasjon Fritham}}を実行したが{{sfn|Roskill Vol II|pages=132-133}}、[[バレンツブルク]]沖でドイツの爆撃機に沈められてしまう。この作戦の指揮官は炭鉱の元社長を務めた{{仮リンク|アイナル・スヴェルドルップ|no|Einar Sverdrup}}中佐、参加者の多くはかつての炭鉱労働者たちで、中佐ほか12名が爆撃により戦死、70名はバレンツブルクで越冬し翌1942年7月にようやく救助された。連合国軍は増援部隊を送り172名が駐留することになった。 |
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1944年9月、ドイツ海軍は[[北東島]]に気象観測隊を送り込み、秘密裏に測候所を設置して気象情報の収集を行った([[ハウデーゲン作戦]])。ドイツが降伏した1945年5月以降も測候所は活動を続け、9月4日にノルウェー当局が派遣したアザラシ漁船に対して投降した。ハウデーゲン観測隊の隊員11名は、第二次世界大戦で最後に降伏したドイツ兵とされる。 |
1944年9月、ドイツ海軍は[[北東島]]に気象観測隊を送り込み、秘密裏に測候所を設置して気象情報の収集を行った([[ハウデーゲン作戦]])。ドイツが降伏した1945年5月以降も測候所は活動を続け、9月4日にノルウェー当局が派遣したアザラシ漁船に対して投降した。ハウデーゲン観測隊の隊員11名は、第二次世界大戦で最後に降伏したドイツ兵とされる。 |
2020年8月16日 (日) 13:12時点における版
- スヴァールバル諸島
- Svalbard
-
(スヴァールバル諸島の旗) (スヴァールバル知事の紋章) - 国の標語 : 不明
- 国歌 : Ja, vi elsker dette landet
そう、我らはこの地を愛す -
公用語 ノルウェー語・ロシア語 主都 ロングイェールビーン 政府 ノルウェー領内の非法人地域
(スヴァールバル諸島およびヤンマイエン島)君主 ハーラル5世 総督 Kjerstin Askholt 面積
- 総面積
- 水域
61,022 km2[1]
395 km2人口
- 総人口 (2016年)
- 人口密度
2,667人[2]
0.044人/km2
(0.11人/mi2)
248位通貨 ノルウェー・クローネ (NOK)[注 1] 時間帯 CET(UTC+1) CEST(UTC+2) ccTLD .no (.sjを割り当てるが未使用。)
地理コード NO-21、SJ国際電話番号 47 郵便番号 917x -
- 位置の概念図凡例:スヴァールバル諸島(暗緑色)、ヨーロッパ(濃灰色)。
注
- 位置の概念図凡例:スヴァールバル諸島(暗緑色)、ヨーロッパ(濃灰色)。
- ^ バレンツブルクなどのロシア人地域ではロシア・ルーブルも用いられる。
スヴァールバル諸島(スヴァールバルしょとう、Svalbard ノルウェー語発音: [²svɑːlbɑr] ( 音声ファイル)、[ˈsvɑːlbɑːr] SVAHL-bar[3][注釈 1])は、北極圏にあるノルウェー領の群島。北極海のヨーロッパ寄りに位置し(北緯74°–81°、東経10°–35°)、東はバレンツ海、西にあるグリーンランドとの間はフラム海峡、南西はグリーンランド海、南東はノルウェー海に囲まれている。
面積が最大で唯一の有人島であるスピッツベルゲン島をはじめとして北東島とエッジ島などほぼ不毛の島々からなり、ノルウェー本土との間には属島のビュルネイ島がある。1925年より法的には完全なノルウェー領土の一部であるが、スヴァールバル条約[4]のもと法制度や行政機構は本土と異なる[注釈 2]。地理的にノルウェー本土のどの県にも属さず、非法人地域としてノルウェー政府が任命するスヴァールバル知事 が首長として行政をつかさどり、シェンゲン圏も北欧旅券協定 も欧州経済地域も対象外である。2002年以来、スヴァールバルの中心都市ロングイェールビーンに選挙による地域自治体が置かれ、本土の地方自治体 と類似の役割を果たした。2019年時点の人種構成はノルウェー人56.9%、その他43.1% (ロシア人、ウクライナ人[注釈 3]他を含む)[5]。
人が定住する地としてはかなり北に位置し、最大の町ロングイェールビーンは北緯78.22°、東経15.65°にある。その他の主な定住地としてかつての炭鉱町ニーオーレスンと採炭地Sveagruva 、ロシア人が暮らし独立性が高いバレンツブルクがある。地球上で一般人が暮らす最北の定住地 ニーオーレスンは極地科学研究の世界的な拠点となっており、オゾン層破壊や大気の研究など環境分野に関する研究も行われている。さらに北にも人の住む場所はあるが、いずれも任期単位で赴任する研究者が滞在する。総面積6万1,022km2、標高1,717m[疑問点 ]、人口は2,667人(2016年時点)[2]である。
地理
1920年のスヴァールバル条約[6]は、北緯74〜81度および東経10〜35度のすべての島、小島、岩礁をスヴァールバル諸島だと定義しており[7][8]、ビュルネイ島とホーペン島の気象観測所を除いて、すべての居留地がスピッツベルゲン島に位置している[6]。スヴァールバル条約が発効した時点で、ノルウェーは諸島の95.2%にあたる未開拓地をすべて占有しており、そのほかはそれぞれノルウェーの石炭採掘会社ストーレノシュケが4%、ロシアの石炭採掘会社アルクティクゴルが0.4%、他の個人所有者が0.4%ずつ所有している[9]。
スヴァールバル諸島は北極圏に位置しているため、夏季には白夜、冬季には極夜になる。北緯74度では白夜が99日、極夜が84日続き、81度ではそれぞれ141日と128日である[10]。ロングイェールビーンでは、白夜が4月20日から8月23日まで、極夜は10月26日から2月15日まで続く[7]。冬季には満月と反射した雪の組み合わせで光量が増えることがある[10]。また、高い緯度と地球の傾斜角により、スヴァールバルには長時間の薄明がある。ロングイェールビーンでは極夜の初日と最終日には7時間半の薄明になる一方、薄明は白夜より2週間ほど長く続く[11][12]。夏至になると、太陽は真夜中に12度の太陽角で沈み、夜間はノルウェー本土のオーロラ地域よりもはるかに高くなる[13]。しかし、日中の太陽は35度と低いままである。
スヴァールバル諸島の6割におよぶ36,502平方キロは氷河で覆われており、3割が不毛の岩、残りの1割に植生が見られる[14]。最大の氷河は北東島にあるAustfonna(8,412平方キロ)であり、Olav V LandとVestfonnaがそれに続く。夏の間はスピッツベルゲン島のSørkappの南から北までの、雪や氷河に覆われないわずかな距離でスキーをすることができる。北東島よりさらに東にあるクヴィト島は99.3%が氷河で覆われている[15]。
スヴァールバル諸島の地形は、高原であった土地をフィヨルドや山谷として切り裂いた第四紀氷河時代によって形成された[16]。諸島全体は北極巨大火成岩岩石区の一部であり[17]、2009年3月6日にはマグニチュード6.5を観測したノルウェー最大の地震に見舞われた[18]。
歴史
発見
スヴァールバル諸島は1596年に北東航路を求めるオランダ人探検家のウィレム・バレンツが発見し[19][20]、主な島の西海岸の眺望からSpitsbergen スピッツベルゲン(「尖った山々」の意)と名付けた。グリーンランド一帯は長くヨーロッパ本土に接続すると考えられており[21]、バレンツが地図に記した地名はHet Nieuwe Land (「新発見の地」) であり、ほかにも複数ある島々は認識していなかったと考えられる。「スピッツベルゲン」という地名は現在は最大の島1島のみを指すものの、ながく主島と周辺の島々を合わせた諸島の両方に用いられることとなる[22]。12世紀アイスランドのヴァイキングたちはSvalbarði(「冷たい岸」の意)という地名[23][24]を文献『植民の書』(Landnámabók)に残しているが、これはヤンマイエン島あるいはグリーンランド東部の可能性も高い。ノース人は島々で釣りや狩猟をしていたと考えられる[25]。また16世紀前半にポモールたちが入植していたともいわれるが、確たる証拠は17世紀後半になるまで存在しない。
スヴァールバルの島に着岸したもっとも古い記録はイングランドの船が1604年、ビュルネイ島で行ったセイウチ狩りとされ、引き続いて毎年島々を探る船が現れると1611年にスピッツベルゲン島にホッキョククジラの捕鯨基地がおかれることになる[26][27]。やがて会社同士が覇権を争い、国が乗り出して他国の船団を力づくで排除しようとする動きへとつながっていく[28][29]。
捕鯨時代
1610年にイギリス人捕鯨家Jonas Pooleが遠征し鯨が豊富にいることを報告すると、1612年にはオランダ、バスク地方、1613年にフランス、1617年にはデンマークが捕鯨隊を送った。彼らは主に沿岸でホッキョククジラを捕らえ、スピッツベルゲン島西岸には鯨油をつくる小規模な基地が多く設けられ冬季は無人となる。1630年代には越冬する者が現れる反面、近海で捕鯨をするようになり、鯨油の加工は母港に戻って行うようになったため、西岸の基地は1670年までに放棄された[要出典]。スヴァールバル近海での捕鯨はオランダ人などが続けており、1663年にオランダの捕鯨船とフランスの軍艦が捕鯨権をめぐって海戦を行い、1707年にはオランダの捕鯨家Cornelis Gilesが初めて諸島を周回航海した。他にドイツ、ベルギー、ノルウェー、スウェーデンなどが捕鯨遠征隊を送っている。
1820年代にいたり、オランダ、イギリス、デンマークともクジラを求めて北極海の他の地域に散っていくとスピッツベルゲン島を基地にする捕鯨は下火になる[30]。17世紀後半に現れたロシア人は早くから越冬し、ホッキョクグマやキツネなどを集中して狩猟する[31]。
英露戦争が1809年に終結すると周辺でロシア勢の活動は衰え始め、1820年代には姿を見かけなくなった[32]。ノルウェー勢はセイウチ中心の狩猟を1790年代から続けており、ごく初期にノルウェーからスピッツベルゲン島に入ったのはハンメルフェストあたりの沿岸サーミ人とされ、1795年のロシア探検隊にも案内人として雇われた[33]。ノルウェー勢の捕鯨基地もロシア勢とほぼ同時期に放棄された[34]が、スピッツベルゲン島近海の捕鯨そのものは1830年代まで、ビュルネイ島周辺では1860年代まで続く[35]。
1872年の冬にノルウェー人狩猟者17名が死亡するスヴェンスクフーセットの悲劇が起きている。捕鯨家と同様、狩猟者、探検家、科学者たちはほとんど沿岸部にしか訪れなかったため、内陸部については1896年にMartin Conwayと科学者たちがスピッツベルゲン島を横断するまでほとんど不明のままだった。
ノルウェー領
ノルウェーがスウェーデンと連合国家(同君連合)であった1871年に、スヴァールバル諸島のノルウェー領化を図り、スウェーデンが積極的に国際活動を行っていた。スウェーデン本国は北極海には面しておらず、そのためスウェーデンがスヴァールバル諸島の領有権を主張するのは無理があった。こうした理由からノルウェーを介しての領有を目指したのであるが、当時のノルウェー政府は積極的ではなかった。これはスヴァールバル諸島を実効支配した場合、その出費が嵩むことに因る資産の圧迫や、改めて領有宣言をする事に因って他国も領有権を主張し出して揉め事を起こしかねないと懸念したことが理由であった[36]。こうした経緯のためか、スウェーデンは、1905年のノルウェー独立に際しては、スヴァールバル諸島のノルウェー領化に反対している。
北極圏観光の目的地としてスヴァールバル諸島が注目され始めるのは1890年代で、石炭鉱床が発見されると島は北極探検 の拠点化する[37]。まずノルウェー人の採掘が1899年に始まるのはバレンツブルクとロングイェールビーンの面するフィヨルド沿い (Isfjorden) で、1904年にイギリス勢がアドベント湾 に定着して通年の操業を開始[38]、アメリカ勢はロングイェールビーンで1908年に生産にかかる[39]。第一次大戦下の大半のノルウェー企業同様、ストーレノシュケ (SNSK) は買収したアメリカ企業を核に1916年に地位を確立する[40]。
諸島に主権を確立するかどうか議論が1910年代に始まり[41]、第一次大戦で中断[42]、1920年2月9日、パリ講和会議に続きスヴァールバル条約の署名によりノルウェーに完全な主権が付与され、同時にすべての署名国は漁業、狩猟および鉱物資源に平等な権利を得る[43]。この条約締結を受け、群島を法的に規制するスヴァールバル法 が1925年8月14日に発効、ヨハネス・ゲルケンズ・バッソ初代知事 が就任する[44]。1920年代にノルウェーはスピッツベルゲン (主島の別称は西スピッツベルゲン島) と呼ばれた諸島名をスヴァールバル諸島に改称、主島の呼称をスピッツベルゲン島と定める[45]。
ただしクヴィト島、コングカルルス諸島とホーペン島、ビョルン島はスッピツベルゲン諸島[46]に含まれない。ロシア帝国時代は伝統的にフルマント島 (Грумант)[47]と呼びならわしてきたが、ソビエト連邦は「スピッツベルゲン」(Шпицберген) を取り入れ、証拠はないがロシア人こそ島々を最初に発見したという主張を通そうとした[48][49]。1928年、イタリアの探検家 ウンベルト・ノビレ以下飛行船「イタリア号」の乗員乗客がフォイン島 沖の海氷に不時着し、各国が参加する国際的な救助活動の舞台として、スヴァールバル諸島はにわかに脚光を浴びた。
こうして19世紀末までは無人島だったスピッツベルゲン島は20世紀に石炭採掘の島となり、外国企業が進出し定住者が生まれた。それに伴うように採掘権争いや労働争議などが起こると法的統治を求め、1920年にスヴァールバル条約が結ばれる。ノルウェーの主権承認はスウェーデンや日本を含むスヴァールバル条約締結国の国民の自由な経済活動を認めることと両立すると規定され、ロシア革命で誕生したソビエト連邦も1924年に条約に参加、スピッツベルゲン島に進出した。
第二次世界大戦
イギリスとドイツはスヴァールバル諸島を「Spitzbergen」諸島と呼んでいた。第二次世界大戦勃発時、4月にヴェーザー演習作戦でドイツがノルウェーに侵攻しても、島々にはノルウェー人900名とロシア人2000名が暮らし、1941年夏時点で気象観測や採炭に通常どおり携わっていた。しかしナチス・ドイツが1941年6月22日にソ連を攻撃(独ソ戦)したため、7月31日に連合国軍は全ての炭鉱に防衛隊を配置した。ソ連北部向けに援助物資を輸送する英国の護送船団はスヴァールバル諸島とノルウェーの間を通過することになり、スヴァールバルは戦略上の重要拠点となったのである。連合国軍は当初スピッツベルゲン島を占拠する計画だったが妥当性が低いと判断[50]、冬が近づいたため測候所や炭鉱の施設を使用不能にして労働者たちを避難させるゴーントレット作戦が実行された[51][52]。
連合軍が撤収前に気象観測地点を破壊した行動に対して、ドイツ軍は1941年10月に自前の測候所を建て暗号名「"Banso"」 と名付ける[53]。翌11月にこれはイギリス軍艦4隻の攻撃に遭いいったんは撤収するものの、同年中に復帰している。2番目の測候所「クノスペル」(Knospel)は1941年にニーオーレスンに設置され1942年まで残った。1942年5月にフリサム作戦で人員が到着すると、ドイツ軍はBanso部隊に撤収を命じる。
翌1942年春に自由ノルウェー軍はロングイェールビーンの炭鉱を再開させるフリサム作戦を実行したが[54]、バレンツブルク沖でドイツの爆撃機に沈められてしまう。この作戦の指揮官は炭鉱の元社長を務めたアイナル・スヴェルドルップ中佐、参加者の多くはかつての炭鉱労働者たちで、中佐ほか12名が爆撃により戦死、70名はバレンツブルクで越冬し翌1942年7月にようやく救助された。連合国軍は増援部隊を送り172名が駐留することになった。
ドイツ海軍は1943年9月シチリア作戦を実行。戦艦ティルピッツ、シャルンホルスト、駆逐艦9隻からの砲撃を行いスピッツベルゲン島を9月6日から9日まで占拠したが、連合国軍が奪回している。これ以外にも、スヴァールバル諸島の沖では援ソ船団とそれを狙うドイツ海空軍で激戦が繰り返された(第二次世界大戦中の北極海における輸送船団)。
1944年9月、ドイツ海軍は北東島に気象観測隊を送り込み、秘密裏に測候所を設置して気象情報の収集を行った(ハウデーゲン作戦)。ドイツが降伏した1945年5月以降も測候所は活動を続け、9月4日にノルウェー当局が派遣したアザラシ漁船に対して投降した。ハウデーゲン観測隊の隊員11名は、第二次世界大戦で最後に降伏したドイツ兵とされる。
終戦後、ソ連軍はスヴァールバル諸島の共同統治と防衛協定をノルウェーに働きかける。ノルウェーは1947年これを拒否、その2年後、北大西洋条約機構(NATO)に加盟する。その後もソ連は諸島内で民間人の活動を活発に続けさせており、島々がNATOに利用されないよう、抑止効果を狙ったとされる[55]。
戦後から現在まで
大戦後のノルウェーはロングイェールビーンやニーオーレスンにて操業を再開し[56]、ソ連側もバレンツブルクやピラミーデン、グルマントにて採炭を始めた[57]。しかし、ニーオーレスンの鉱山は1945〜54年と1960〜63年までの操業中に計71名の死者を出し、特に1962年に作業員21名が死亡したキングス・ベイ事件は第3次ゲルハードセン内閣を退陣に追い込んだ[58][59]。1964年以降のニーオーレスンは研究の最前線となり、欧州宇宙研究機構の施設が建てられた[60]。1963〜84年には石油の試掘も実施されたが、商業的に利用可能な油田は見つからなかった[61]。1960年からは定期のチャーター便がノルウェー本土からホテルネセトの飛行場まで運航され[62]、1975年にはスヴァールバル空港にて通年運航が開始された[63]。
冷戦時代のスヴァールバル諸島はソ連人が人口のおよそ3分の2を占め(残りはノルウェー人)、その人数は4,000人弱であった[57] 。しかしそれ以来の活動は大幅に減少し、1990年時点の約2,500人から2010年には450人ほどにまで落ち込んだ[64][65]。グルマントの鉱山は1962年に枯渇した後に閉鎖され[57]、ピラミーデンも1998年に閉山した[66]。バレンツブルクからの石炭輸出は2006年の火災により中止されたが[67]、2010年に再開された[68] 。ロシア人のコミュニティにおいては、オペラフェレットにて141名が死亡したヴヌーコヴォ航空2801便墜落事故[69]と、バレンツブルクのヘリポートにて3名が死亡したヘリ墜落事故[70]といった2件の航空事故が起きた。
1989年に公益事業や文化、教育がSvalbard Samfunnsdriftに分離されるまで、ロングイェールビーンは純粋な企業城下町のままであった[71]。1993年にはノルウェー政府へ払い下げられ、スバルバール大学が設立された[72]。1990年代を通しては観光業が成長し、ロングイェールビーンはストーレノシュケ社や鉱業から自立した経済を発展させた[73]。2002年1月1日からは法人化され、ロングイェールビーン地域評議会が成立した[71]。
住民
人口
2016年現在のスヴァールバル人口は2,667人で、そのうちロシア人とウクライナ人が423人、ポーランド人10人、そのほかの非ノルウェー人322人がノルウェーの居留地で生活している。2005年時点のロングイェールビーンにおける非ノルウェー人のグループは、多い順にロシア、ウクライナ、ポーランド、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、タイであった[65]。
居留地
ロングイェールビーンはスヴァールバル諸島最大の居留地かつ知事の所在地であり、唯一の法人化された町である。町には病院、小中学校、大学、プールのあるスポーツセンター、文化センター、図書館や映画館[67]のほか、路線バス、ホテル、銀行[74]、複数の博物館[75]などがあり、スヴァールバルポステンという週刊紙も発行されている[76]。町に残されている採掘活動はごくわずかであるため、従業員はストーレノシュケ社が鉱山を経営するスヴェアグルーヴァに通勤している。スヴェアグルーヴァはベッドタウンのような位置付けであり、社員はロングイェールビーンから毎週通勤している[67]。
ニーオーレスンは科学研究のための定住地である。かつては鉱山の町であったが、今でもノルウェーの国有企業キングス・ベイによって運営されている企業町である。観光資源もあるが、科学研究への影響を最小限に抑えるためにノルウェー当局が立ち入りを制限している[67]。35人の冬季人口に対し、夏季人口は180人を数える[77]。ノルウェー気象研究所はビュルネイ島とホーペン島に研究スタッフが一時的に居住可能な観測所を設け、それぞれ10人と4人を配置している[67]。ポーランドは10人の永住者がいるポーランド極地基地をホルンスンにて運営している[67]。
バレンツブルクは、ピラミーデンが1998年に放棄されてからは唯一の恒久的なロシア人居留地である。全施設をアルクティクゴル社が保有する企業町でもあり、同社は鉱山設備に加えてホテルと土産物店を開店させて、ロングイェールビーンからの旅行やハイキングに来た観光客へサービスを提供している[67]。町には学校、図書館、スポーツセンター、公民館、プール、農場、温室などの施設がある。ピラミーデンにも同様の施設があり、どちらも第二次大戦後ソ連の典型的な建築および計画様式で建てられており、世界最北の2つのレーニン像と他の社会主義リアリズム芸術を含む[78]。2013年現在、インフラを維持して観光客向けに再開されたホテルを運営するため、ほとんど放棄されたピラミーデンに少数の従業員が配置されている。
宗教
人口のほとんどはキリスト教徒でありノルウェー国教会に属している。同諸島のカトリック教徒には、en:Roman Catholic Territorial Prelature of Tromsøが神父として仕えている[79]。
スポーツ
スヴァールバル諸島ではサッカーが最も人気のスポーツであり、3つのサッカー場(うち1つはバレンツブルク)を有するが、人口が少ないためスタジアムはない[80]。しかし、フットサルをはじめとする各種スポーツのための屋内ホールがある[81]。
政治
1920年に署名されたスヴァールバル条約により、同諸島に対するノルウェーの完全な主権が確立された。スヴァールバル諸島はノルウェーの南極領とは異なり、ノルウェー王国の一部であり、海外領土ではない。この条約はスヴァールバル法を受けて1925年に発効した。条約の40の加盟国はすべてノルウェーの法律が適用されるが、同諸島での商業活動を差別されることなく実行する権利を有する。条約はノルウェーの徴税権を諸島内の金融サービスにおける権利に限定しているため、スヴァールバル諸島はノルウェー本土よりも所得税が低く、付加価値税はない。同諸島には、コンプライアンスを確保するための別の予算がある。また、軍事施設の設置を禁じている非武装地帯でもある。条約はノルウェー政府による自然環境の保護を定めているため、ノルウェーの軍事活動はノルウェー沿岸警備隊による漁業監視に限定されている[8][82]。外国人の入国に制限はなく、ビザも必要ない[83][84]。
スヴァールバル法はスヴァールバル知事(ノルウェー語: Sysselmannen)の制度を定めたが、これは知事と警察長の両方の責務を負い、行政部門から与えられた他の権限も有する。知事の職務には環境政策、家族法、法執行、捜索救難、観光管理、情報サービス、外国人居留地との接触、海上調査や司法審査の一部分野における審査などが含まれる。ただし、警察としての役割を果たすことはない[85][86]。2015年からは26名の専門家の補佐のもと、 Kjerstin Askholtが知事に就いている。知事職はノルウェー司法公安省の傘下にあるが、その業務範囲内の事項については他の省庁に報告される[87]。
2002年以来、ロングイェールビーン地域評議会は、公益事業、教育、文化施設、消防署、道路、港湾などにおいて、自治体と同じ多くの責任を担ってきた[73]。介護または看護サービスはなく、生活保護も受けることはできない。ノルウェーの住民は本土の自治体を通じて年金と医療の権利を有している[88]。スヴァールバル諸島の病院は北ノルウェー大学病院の一部であり、空港は国有企業のAvinorによって運営されている。ニーオーレスンとバレンツブルクは現在も企業町であり、町のインフラはすべてキングス・ベイとアルクティクゴルがそれぞれ所有している[73]。スヴァールバル諸島に事務所を置く他の組織などは、ノルウェー鉱業理事会、ノルウェー極地研究所、ノルウェー税務管理局、そしてノルウェー国教会である[89]。司法面においては、トロムソにあるノルド・トロムス地方裁判所およびハロガランド控訴裁判所の管轄である[90]。
ノルウェーは欧州経済領域(EEA)およびシェンゲン協定に加盟しているものの、スヴァールバル諸島はシェンゲン圏やEEAには含まれない[91]。非EUや非北欧のスヴァールバル居住者はシェンゲン・ビザを必要としないが、それなしにノルウェー本土からスヴァールバル諸島へ向かうことは禁止されている。収入源のない人は知事に拒否される一方[92]、スヴァールバル行きのビザや滞在許可は必要ない。スヴァールバル諸島では国籍を問わず、誰もが無期限に生活し働くことができ、スヴァールバル条約は条約加盟国にノルウェー国民と同等の居住権を認めている。これまでのところ、条約を締結していない国民もビザなしで入国できたが、「スヴァールバルからの拒絶および追放に関する規則(Regulations concerning rejection and expulsion from Svalbard)」が効力を有している[93][94]。また、ロシアはバレンツブルクに領事館を置いている[95]。
2010年9月には、スヴァールバル諸島とノヴァヤゼムリャの国境を画定する条約がロシアとノルウェーの間で結ばれた。北極での石油探査への関心の高まりがこの論争解決への関心を高めた。この合意は、ノルウェーとロシアの大陸国境の単なる北上に基づくものではなく、スヴァールバル諸島の相対的位置を考慮に入れている[96]。
経済
スヴァールバル諸島における三大産業は、採炭、観光、そして研究である。2011年の時点では、鉱業分野で484人、観光分野で211人、教育分野で111人が働いていた。同年の収入は鉱業が20億800万クローネ(227,791,078米ドル)、観光は3億1700万クローネ(35,967,202米ドル)、研究は1億4200万クローネ(16,098,404米ドル)であった[73][97]。2006年時点の経済活動に従事する人々の平均収入は、ノルウェー本土より23%高い494,700クローネであった[98]。ほとんどすべての住宅は様々な雇用主や機関によって所有され、従業員に貸し出されている。個人住宅はわずかしかなく、その多くがレジャー用のキャビンである。このためスヴァールバル諸島では、由緒ある機関で働かずに生活することはほぼ不可能である[92]。
20世紀初頭のスヴァールバル再定住以降、石炭採掘は主要な商業活動となっている。ノルウェー貿易産業省の下部組織であるストーレノシュケ社は、スヴェアグルーヴァにあるスヴェア・ノルド社とロングイェールビーンのマイン・セブン社を運営している。前者は2008年に340万トンを生産し、後者の生産量の35%はロングイェールビーン発電所の燃料として使用される。2007年以降はバレンツブルクでのアルクティクゴルによる大規模な採炭は行われていない。これまで陸上での石油の試掘は実施されてきたが、恒久的な操業には充分な結果が得られなかった。ノルウェー当局は環境上の理由から沖合での採油活動を許可しておらず、以前に試掘された土地は自然保護区または国立公園として保護されているが[73]、2011年にはスヴァールバル沖での石油・ガス資源開発に関する20ヵ年計画が発表された[99]。
スヴァールバル諸島は歴史的に捕鯨と漁業の基地でもあった。ノルウェーは1977年に、諸島の周囲200海里(370km)の排他的経済水域(EEZ)を主張したが[9]、この200海里以内には31,688平方キロの領海と770,565平方キロのEEZが含まれていた[100]。ノルウェーはその水域での制限的な漁業政策を維持しており[9]、ロシアはその主張に異議を唱えている[6]。観光業はその自然環境に焦点を当て、ロングイェールビーンを中心にハイキング、カヤック、氷河洞窟の散策、スノーモービルや犬ぞり探検などのサービスを提供している。また、クルーズ客船は沖合船による寄港とスヴァールバルから出航および帰航する遠洋クルーズの両方を含め、交通量のかなりの割合を占める。海上交通は3月から8月の間に集中しており、1991〜2008年の夜間寄港は5倍に伸び、およそ93,000人が宿泊した[73]。
スヴァールバル諸島における学術研究は、高緯度北極に最も近いエリアであるロングイェールビーンとニーオーレスンを中心としている。スヴァールバル条約はどの国に対しても同諸島での調査研究を許可しており、ポーランド極地基地や中国の北極黄河基地のほか、バレンツブルクにもロシアの施設がある[101]。ロングイェールビーンにあるスバルバール大学は、様々な北極科学、特に生物学、地質学、地球物理学の学生350人に学部や大学院課程を提供している。学生にはノルウェー本土での学習を補完するためのコースが与えられ、学費は無料であり、講義は英語で実施され、ノルウェー人と外国人学生は平等に参加している[72]。
スヴァールバル世界種子貯蔵庫は、世界のできる限り多くの作物品種とその野生の近縁種の種子を保管するための種子銀行である。ノルウェー政府とグローバル作物多様性トラストの協力により、貯蔵庫はロングイェールビーン付近の岩を切り込み、自然の状態でマイナス6度に保たれ、内部の種子はマイナス18度で冷凍されている[102][103]。
また、同諸島とハーシュタを結ぶ1,440キロの光ケーブルであるスヴァールバル海底ケーブルシステムは、ニーオーレスンにあるスヴァールバル衛星基地などの設備を介して極軌道の人工衛星と通信するために必要とされる[104][105]。
2015年までのクルーズ客船は同諸島にとって収入源のひとつであったものの、不毛だが絵のように美しいマグダレナフィヨルドに近いニーオーレスンのような小さな居留地に、多数のクルーズ船乗客が突如上陸することをノルウェー政府は懸念するようになった。大型船のサイズが大きくなると、通常は40人未満のコミュニティに最大2,000人が上陸する可能性もある。その結果、政府は寄港するクルーズ船の大きさを厳しく制限した[106]。
失業は事実上禁止されており、福祉制度は存在しない[107]。
交通
ロングイェールビーン、バレンツブルク、ニーオーレスンにはそれぞれ道路網はあるが、互いには接続されていない。オフロードの自動車輸送は裸地では禁止されているが、スノーモービルは冬の間、商業活動とレクリエーションの両面において広く利用されている。ロングイェールビーンからバレンツブルク(約45キロ)とピラミーデン(約100キロ)への輸送は、冬季にはスノーモービルにて、あるいは通年利用される海路にて可能である。すべての居留地には港があり、ロングイェールビーンにはバス交通もある[108]。
ロングイェールビーンから3キロの位置にあるスヴァールバル空港は、同諸島からの航空輸送を提供している唯一の空港であり、トロムソとオスロへはスカンジナビア航空が毎日運航している。格安航空会社のノルウェー・エアシャトルもオスロへ週3〜4日の間隔で運航しており、ロシアへの不定期チャーター便もある[109] 。 フィンエアーは2016年6月1日〜8月27日にヘルシンキ便を週3回運航させると発表したが、ノルウェー当局はフィンランドとノルウェーの間の航空交通に関する1978年の二国間協定を理由に、この路線開設を許可しなかった[110][111][112]。ロングイェールビーンからニーオーレスン空港およびスヴェア空港へは、ルフト・トランスポートがキングス・ベイ社やストーレノシュケ社向けの定期的な企業チャーター便を提供しているが、通常これらの路線は市民は利用できない[113]。バレンツブルクとピラミーデンにはヘリポートがあり、知事がヘリコプターを頻繁に使用するほか、少数ながらアルクティクゴル社も使用する[114]。
気候
スヴァールバル諸島はツンドラ気候(ET)であり、冬の最低気温は-30℃以下になる。1日の平均気温は、夏は5°C、冬は-12°Cほどである[115]。
北大西洋海流最北の支流である西スピッツベルゲン海流は、冬季のスヴァールバル諸島の気温を和らげる。冬の気温はロシアやカナダにある同緯度地域よりも2度高い。大西洋の温かい海水のため、1年のうちかなりの期間が航海可能である。内陸部のフィヨルドと渓谷は山々に守られるため海岸部よりも気温差が大きく、夏の気温は約2度高く、冬は3度低い。スピッツベルゲン島南部では北部や西部よりもわずかに気温が高い。冬の南北の温度差は通常5度、夏は約3度である。また、ビュルネイ島の平均気温は諸島の他の地点よりも高い[116]。
2016年はスヴァールバル空港での記録上最も温暖な年であり、その平均気温0.0度は1961〜90年の記録を7.5度上回り、北極圏の場所に相当した。その年の最低気温は−18度であり、平年の1月、2月、3月の平均最低気温よりも高かった。同年の降雨日数と降雪日数は同じであり、少なくとも降雪日数が2倍となる平年のパターンとは大きく異なった[117]。
スヴァールバルの気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | −13.0 (8.6) |
−13.0 (8.6) |
−13.0 (8.6) |
−9.0 (15.8) |
−3.0 (26.6) |
3.0 (37.4) |
7.0 (44.6) |
6.0 (42.8) |
1.0 (33.8) |
−4.0 (24.8) |
−8.0 (17.6) |
−11.0 (12.2) |
−4.7 (23.45) |
平均最低気温 °C (°F) | −20.0 (−4) |
−21.0 (−5.8) |
−20.0 (−4) |
−16.0 (3.2) |
−7.0 (19.4) |
−1.0 (30.2) |
3.0 (37.4) |
2.0 (35.6) |
−3.0 (26.6) |
−9.0 (15.8) |
−14.0 (6.8) |
−18.0 (−0.4) |
−10.3 (13.4) |
降水量 mm (inch) | 22.0 (0.866) |
28.0 (1.102) |
29.0 (1.142) |
16.0 (0.63) |
13.0 (0.512) |
18.0 (0.709) |
24.0 (0.945) |
30.0 (1.181) |
25.0 (0.984) |
19.0 (0.748) |
22.0 (0.866) |
25.0 (0.984) |
271 (10.669) |
出典:Climate and daylight in Svalbard (Longyearbyen)[118] |
自然環境
ヒトのほかには、ホッキョクギツネ、スヴァールバルトナカイ、そしてグルマントのみで見られる、偶然持ち込まれたen:Southern voleといった3種の陸生哺乳類が諸島に生息している[119]。ホッキョクウサギやジャコウウシを導入しようとする試みは、どちらも失敗に終わった[120] 。海棲哺乳類としては鰭脚類やセイウチ、クジラ、イルカ、ホッキョクグマなど15〜20種類が生息している[119] 。
ホッキョクグマはスヴァールバル諸島の象徴であり、主要な観光名物の1つである[121]。動物たちは保護され、居留地の外に移動する人々はその攻撃から身を守るために適切な威嚇道具を持つことが要求される。最終手段として銃の携帯も勧められているが[122][123]、2011年にイギリスの男子生徒がホッキョクグマに殺されたほか[124]、2018年7月には、ホッキョクグマが遊覧船の観光客を引率する保護官を負傷させ、のちに射殺された事件などがあった[125][126]。スヴァールバル諸島とゼムリャフランツァヨシファはおよそ3,000頭のホッキョクグマの共通個体群を抱えており、コングカルルス諸島が最も重要な繁殖地となっている。
スヴァールバルトナカイ(R. tarandus platyrhynchus)は以前は絶滅寸前であったが、 ホッキョクギツネと同様、現在は合法的に狩猟できる別の亜種である[119]。また、ロシア人の居留地にはわずかながら家畜がいる[127]。
スヴァールバル諸島では約80種の鳥類が観察できるが、そのほとんどは渡り鳥である[128]。バレンツ海は世界で最も海鳥が多い海域のひとつであり、晩夏には約2000万個体が生息する。そのうち16種がレッドリストに登録されている一方、よく見られるのはヒメウミスズメ、フルマカモメ、ハシブトウミガラス、ミツユビカモメなどである。 海鳥にとって特に重要な生息地としては、ビュルネイ島、ホーペン島、ストルフィヨルデン、北西スピッツベルゲン国立公園が挙げられる。キョクアジサシは最も離れた南極大陸まで移動する[119]。スヴァールバル諸島に渡り繁殖するのはユキホオジロとen:Wheatearの2種のみであり、ライチョウは同諸島にて越冬する唯一の鳥である[129]。また、2008年に発見されたジュラ紀のプリオサウルスの化石は、海棲爬虫類としては最大のものであり、体長約15メートルと推定されている[130]。
スヴァールバル諸島では北極の植物を有する永久凍土とツンドラがあり、165種の植物が確認されている[119]。それらは諸島の約1割を占める、夏季に霜がないエリアのみに分布する[131]。植生はIsfjorden周辺のNordenskiöld Land国立公園、およびグアノの影響を受ける場所において最も豊かである[132] 。降水量は少ないものの、諸島は蒸発を抑制する寒冷なステップ気候であるため、植物にとって水を失いにくい[133][119]。生育期は非常に短く、数週間しか続かないこともある[134]。
前述の2つを含め、スヴァールバル諸島にはen:Forlandet National Park、en:Indre Wijdefjorden National Park、en:Nordre Isfjorden National Park、en:Sassen-Bünsow Land National Park、そしてen:Sør-Spitsbergen National Parkの計7ヵ所の国立公園が存在する[135]。これに加え、鳥類保護区15ヵ所、ジオトピック保護区1ヵ所、そして自然保護区6ヵ所があり、なかでも北東スヴァールバル自然保護区と南東スヴァールバル自然保護区は前述のどの国立公園よりも大きい。大部分の自然保護区と3つの国立公園は1973年に定められ、残りの地域は2000年に保護された[136]。また、1946年以前の人の痕跡はすべて自動的に保護される[122]。保護区は諸島の65%を占めており[98]、ノルウェーの世界遺産暫定リストに登録されている[137]。
2015年3月20日の日食にはスヴァールバル諸島とフェロー諸島のみが含まれており、多くの科学者や観光客が観察した。
地質
スヴァールバル諸島最古の岩層はHecla Hoek系と呼ばれる先カンブリア時代からオルドビス紀にかけての基盤岩で、スピッツベルゲン島の西海岸と北東部、北東島北部、ビュルネイ島南部で見られる。なかでもスピッツベルゲン島北西部に見られるジルコン鉱は32億年前に遡る。およそ17億年、10億年、6億年前に造山運動があったが、山脈そのものは浸食により太古の昔に失われ、現在はその深部岩石が痕跡として残っているのみである。カンブリア紀、オルドビス紀の石灰岩層からはイアペトゥス海に生息していた三葉虫やフデイシといった無脊椎動物の化石が出る。
シルル紀になるとローレンシア大陸とバルティカ大陸が衝突しユーラメリカ大陸が生じた。その影響で、この時期より古い岩石はみな変成作用を受けている。スヴァールバル諸島の最高峰Newtontoppenはシルル紀後期に貫入した花崗岩でできている。古地磁気学によれば、この頃スヴァールバル周辺は赤道近辺にあった。
デボン紀には乾燥していたが、石炭紀に入ると熱帯雨林のような気候になる。石炭紀の堆積層はスピッツベルゲン島中央部に分布しており、そこに含まれる石炭層をロシア人らが採鉱していたのがピラミデンの炭鉱跡である。ペルム紀には浅い海面下にあり、地層は石膏、硬石膏、苦灰岩などからなる。
中生代には北緯45°から65°に達する。地球全体が温暖であったために海面が上昇しており、主として浅い海面下にあったため、アンモナイトなどの軟体動物や魚竜・首長竜の化石が出る。1973年にKong Karls Landで見付かったプレシオサウルスの化石は、食餌の軟体動物や植物などが体内に残った状態で発見されたことで話題を呼んだ。白亜紀ごろになると地上にあった期間も多くなり、イグアノドンやアロサウルスのような陸生恐竜の化石が出ている。白亜紀後期になると隆起して地層記録が途切れる。
第三紀に入る頃、スヴァールバル一帯はグリーンランドと衝突し地殻運動が激しくなった。第三紀の地層はスピッツベルゲン島の中南部に広がっており、特に5500万年ほど前の暁新世から始新世へ移る時代は亜熱帯のような気候で植生が豊かであり、ここには多くの植物化石や石炭層が見出される。新第三紀になると、高緯度帯に到達したことと地球全体の寒冷化により、スヴァールバル一帯の気候も寒冷化する。第四紀になると氷河が覆い現在の地形を作り出すことになるが、氷食作用によって地層記録は失われている。
現在スピッツベルゲン島東南部Heer Land地方と北東島北西部に地震活動の活発な地域がある。2008年2月21日未明、Heer Land地方沖を震源とするマグニチュード6.2の地震が、翌年3月6日にはマグニチュード6.5の地震が発生[138]。これらはノルウェーの観測史上最大の地震であったが、損害などは報告されていない。
今後スヴァールバル諸島は北東へ移動し、5000万年ほどで北極近くへ到達すると考えられる。
教育
ロングイェールビーン学校は6〜18歳の生徒が通学する世界最北の学校である。生徒らが16〜17歳ごろになると、ほとんどのその家庭はノルウェー本土へ移住する[139]。バレンツブルクにはロシア人コミュニティのための独自の学校があるが、2014年までに教師は3人になり福祉基金は減少した[140]。1998年以前にはピラミーデンの生徒の教育も担っていた[141]。
ロングイェールビーンには学位認定をしない世界最北の第3期の教育(高等教育)機関[139]である、スバルバール大学(UNIS)もある[142]。
脚注
注釈
- ^ スヴァールバル諸島の1925年以前の呼称はスピッツベルゲン。欧文綴りはSpitsbergen または Spitzbergen。
- ^ スヴァールバル法 (1925年7月17日発効)に従い立憲君主国家内に存在する行政権委譲を受けた地方行政区画である。
- ^ これら旧ソビエト連邦の2国のみ記述する。歴史的にも現在もスバールヴァル最大の居住者数、労働力を占めるため。
- ^ 1599年のバレンツ探検隊の地図は、欧州評議会が率いる「オーロラルート」プロジェクト ("Northern Lights Route" project) に際してオンラインに掲出。トロムソ大学 、1999年。
- ^ オランダ捕鯨基地の絵 (Cornelis de Man作) は、コペンハーゲン湾 (Kobbefjorden) の『デンマーク捕鯨基地』を描いた作品 (A.B.R. Speeck 作、1634年) から着想を得たとされる。
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関連資料
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