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== 第二次世界大戦 ==
== 第二次世界大戦 ==
1939年9月、モーンケは[[ポーランド侵攻]]で LSSAH 連隊の第5中隊長として従軍し、第[[二級鉄十字章]]と第[[一級鉄十字章]]を受章した。翌1940年の[[西方電撃戦]]では、同連隊の第2大隊長となるが、5月にウォルムハウトで指揮下の部隊が[[イギリス軍]]捕虜80名を殺戮する。1941年[[バルカン半島の]]に従軍し、4月6日、[[ユーゴスラヴィア]]侵攻の際に空襲を受け脚に重傷を負う。
1939年9月、モーンケは[[ポーランド侵攻]]で LSSAH 連隊の第5中隊長として従軍し、第[[二級鉄十字章]]と第[[一級鉄十字章]]を受章した。翌1940年の[[西方電撃戦]]では、同連隊の第2大隊長となるが、5月にウォルムハウトで指揮下の部隊が[[イギリス軍]]捕虜80名を殺戮する。1941年[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]に従軍し、4月6日、[[ユーゴスラヴィア]]侵攻の際に空襲を受け脚に重傷を負う。


1943年、[[親衛隊中佐|SS中佐]]へ昇進し、訓練予備大隊を経て[[ヒトラーユーゲント#第12SS装甲師団|第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント]]の第26装甲擲弾兵連隊長となる。翌1944年6月には、同連隊を率い[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディー]]に上陸した連合軍を迎え撃ち[[騎士鉄十字章]]を受章するが、フォントネールペヌルでカナダ兵捕虜35名を指揮下部隊が殺害する。8月20日、[[第1SS装甲師団]]長となるが、12月16日からの[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]で指揮下部隊が[[マルメディ虐殺事件]]を起こす。その後、同戦役中に[[親衛隊少将|SS少将]]へ昇進するも1945年2月に空襲で頭部へ負傷し、師団長職を退いて[[ベルリン]]の総統官邸付となる。
1943年、[[親衛隊中佐|SS中佐]]へ昇進し、訓練予備大隊を経て[[ヒトラーユーゲント#第12SS装甲師団|第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント]]の第26装甲擲弾兵連隊長となる。翌1944年6月には、同連隊を率い[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディー]]に上陸した連合軍を迎え撃ち[[騎士鉄十字章]]を受章するが、フォントネールペヌルでカナダ兵捕虜35名を指揮下部隊が殺害する。8月20日、[[第1SS装甲師団]]長となるが、12月16日からの[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]で指揮下部隊が[[マルメディ虐殺事件]]を起こす。その後、同戦役中に[[親衛隊少将|SS少将]]へ昇進するも1945年2月に空襲で頭部へ負傷し、師団長職を退いて[[ベルリン]]の総統官邸付となる。

2020年8月16日 (日) 13:02時点における版

ヴィルヘルム・モーンケ
Wilhelm Mohnke
生誕 1911年3月15日
ドイツの旗 ドイツ帝国
自由ハンザ都市リューベック
死没 2001年8月6日(2001-08-06)(90歳没)
ドイツの旗 ドイツ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の旗 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 ダンプドイツ語版
所属組織 武装親衛隊
軍歴 1931年 - 1945年
最終階級 親衛隊少将、武装親衛隊少将
除隊後 自動車販売業
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ヴィルヘルム・モーンケ(Wilhelm Mohnke、1911年3月15日 - 2001年8月6日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中、武装親衛隊の将校として第1SS装甲師団(LSSAH)などの指揮を執った。最終階級はSS少将

生い立ち

リューベック生まれ。1931年9月、国家社会主義ドイツ労働者党へ入党し (党員番号649,682)、親衛隊に入隊 (隊員番号15,541)。1933年3月17日、ヨーゼフ・ディートリヒが編成した最初の117名のヒトラー警護隊 (SS-Stabswache Berlin) の一人に選ばれる。モーンケはSS少尉となる。同部隊は、1934年4月13日に最終的にライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LSSAH)と称されることとなる。

第二次世界大戦

1939年9月、モーンケはポーランド侵攻で LSSAH 連隊の第5中隊長として従軍し、第二級鉄十字章と第一級鉄十字章を受章した。翌1940年の西方電撃戦では、同連隊の第2大隊長となるが、5月にウォルムハウトで指揮下の部隊がイギリス軍捕虜80名を殺戮する。1941年バルカン戦線 (第二次世界大戦)に従軍し、4月6日、ユーゴスラヴィア侵攻の際に空襲を受け脚に重傷を負う。

1943年、SS中佐へ昇進し、訓練予備大隊を経て第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲントの第26装甲擲弾兵連隊長となる。翌1944年6月には、同連隊を率いノルマンディーに上陸した連合軍を迎え撃ち騎士鉄十字章を受章するが、フォントネールペヌルでカナダ兵捕虜35名を指揮下部隊が殺害する。8月20日、第1SS装甲師団長となるが、12月16日からのアルデンヌ攻勢で指揮下部隊がマルメディ虐殺事件を起こす。その後、同戦役中にSS少将へ昇進するも1945年2月に空襲で頭部へ負傷し、師団長職を退いてベルリンの総統官邸付となる。

ベルリン攻防戦

4月20日、ソ連軍がベルリン郊外に到達して総統官邸を含む市内へ向け砲撃を開始、ベルリンの戦いが始まった。4月22日アドルフ・ヒトラーより総統官邸を含むベルリン官庁地区の防衛司令官に任命され、9個大隊(兵士2,000人)からなるモーンケ戦闘団を編成して総統地下壕に司令部をおいた。モーンケ戦闘団はドイツ第三帝国の中枢部にあったため、5月2日に降伏するまでソ連軍の激しい攻撃に晒された。ソ連軍にとって官庁街及び国会議事堂はナチス・ドイツの象徴であり、軍事的、政治的にも重要な攻略対象であった。更にモスクワでのメーデーパレード前に占領するため猛烈な攻勢をかけたのである。

4月27日、ヒトラーの妻エヴァ・ブラウンの義弟でハインリヒ・ヒムラーの側近であるヘルマン・フェーゲライン総統地下壕から逃亡、翌28日にはヒムラーが独断で連合国と和平交渉を画策していたことが発覚、激怒したヒトラーはフェーゲラインを逮捕して、モーンケを議長とする特設軍事法廷を設けて裁判にかけた。裁判自体はモーンケが「フェーゲラインは裁判に耐えられない」として短時間で終了した。その後、フェーゲラインはヨハン・ラッテンフーバー総統護衛隊に引き渡され、4月29日深夜に銃殺された。

4月30日ヒトラーが自殺したとの連絡を受け、以前から計画されていた脱出作戦を実行してソ連軍の包囲網から抜け出すことになった。脱出計画はベルリンからエルベ川西岸のアメリカ軍占領地域、またはベルリン北部のドイツ軍部隊への合流であった。 モーンケは官庁地区を防衛する指揮下部隊へヒトラーの死と脱出計画について連絡した。

5月1日23時、10組の脱出グループに分かれて脱出が始まった。モーンケ率いる第1グループには総統地下壕にいたヒトラーの女性秘書トラウデル・ユンゲゲルダ・クリスティアン、親衛隊軍医エルンスト=ギュンター・シェンク、外交官ヴァルター・ヘーヴェルなど20人ほどが参加した。 モーンケはベルリン北部プリンツェンアレーのドイツ軍部隊に合流することを計画して、グループは総統地下壕からUバーンの地下トンネルに沿って進み、フリードリヒシュトラーセ駅から地上へ出た。この先にあるシュプレー川を渡る必要があったが、至近のヴァイデンダム橋を避けてシャリテー病院方面へ向かったことが幸いして無事に渡りきることができた。後続のグループはそのままヴァイデンダム橋を渡ろうとしたため多くの犠牲者が出た。その後、シュルトハイス・ビール醸造所で数百人の避難民や敗残兵と合流した。

5月2日、ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングからベルリン市内の全ドイツ軍部隊へ向けて即時降伏命令が出された。モーンケ達はソ連軍の包囲から脱出できなくなったことを知ってソ連軍に降伏した。しかし、生き残った脱出グループの何人かは降伏を潔しとせず自殺した。

戦後

降伏後、モーンケなどヒトラー側近と見られた捕虜はソ連軍からNKVDに引き渡され、すぐにモスクワのルビャンカ刑務所へ移送された。そこで6年間に渡ってヒトラーの死について執拗な尋問を受けた。その後、モスクワ近郊のヴォルコヴォにある将校用収容所で4年間服役し、1955年10月に釈放された。前述のように、多くの連合軍捕虜虐殺事件に関わっていたが、戦犯に問われることは無かった。釈放後はハンブルクに住み、自動車販売業を営んだ。

2001年8月6日、エッケルンフェルデ近郊ダンプにて死去。

栄典

登場作品

  • ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2004年) - 官庁街の防衛司令官として部隊を指揮する一方、民間人の避難を心配するなど生粋の軍人として描かれている。劇中では上記のベルリンからの悲惨な脱出シーンも描写されている。演じるのはアンドレ・ヘンニッケ

脚注

参考文献

  • V・K・ヴィノグラードフ,Ya・F・ポゴーニィ,N・V・チェプツォフ(編)『KGB秘調書 ヒトラー最後の真実』 佐々木洋子,貝澤哉,鴻英奈(訳)、光文社、2001年、ISBN 4-334-96113-4
  • H・エーベルレ『ヒトラー・コード』高木玲(訳)、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4
  • ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智(訳)、 大日本絵画、2006年、ISBN 4-499-22912-X
軍職
先代
テオドール・ヴィッシュ
SS第1装甲師団 "ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー"師団長
1944年8月20日 - 1945年2月6日
次代
オットー・クム