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「章安灌頂」の版間の差分

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'''章安灌頂'''(しょうあん かんじょう、[[天嘉 (陳)|天嘉]]2年([[561年]]) - [[貞観 (唐)|貞観]]6年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[632年]][[8月27日]]))は、[[中国]][[天台宗]]の僧侶。[[字]]は法雲。[[智顗]]の弟子。長年にわたり師である智顗の書記を務め、その著作のほとんどを筆記した。天台宗の第4祖。


==事績==
==事績==
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*「唐天台山國清寺釋灌頂傳」(『[[続高僧伝]]』巻19「習禪篇」4)
*「唐天台山國清寺釋灌頂傳」(『[[続高僧伝]]』巻19「習禪篇」4)


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2020年8月16日 (日) 12:42時点における版

灌頂
561年 - 632年
生地 臨海郡章安県(浙江省台州市椒江区
没地 天台山国清寺
宗派 天台宗
寺院 天台山国清寺
天台智顗
弟子 智威
著作 『隋天台智者大師別伝』
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章安灌頂(しょうあん かんじょう、天嘉2年(561年) - 貞観6年8月7日632年8月27日))は、中国天台宗の僧侶。は法雲。智顗の弟子。長年にわたり師である智顗の書記を務め、その著作のほとんどを筆記した。天台宗の第4祖。

事績

俗姓は呉氏で、義興郡陽羨県(江蘇省無錫市宜興市)を本貫とするが、臨海郡章安県(浙江省台州市椒江区)の生まれである。

父は早世し、母に育てられた。7歳で章安県の摂静寺の慧拯法師に預けられた。

至徳元年(583年)、金陵光宅寺で智顗に入門した。その後、師に随従して、荊州当陽玉泉寺と移り住んだ。

開皇11年(591年)、晋王楊広に従い、師と共に揚州禅衆寺に入る。

その後、師が天台山に入ったのに随従し、嘉祥大師吉蔵らと交遊を持った。

師の没後、天台山中に国清寺が創建されると、そこに住した。仁寿2年(602年)に請われて都の慧日道場に入ったが、大業7年(611年)、高句麗遠征を機に天台山に戻った。

貞観6年(632年)8月7日(旧暦)、国清寺で亡くなった。享年72。

著書

  • 『涅槃玄義』
  • 『涅槃経疏』
  • 『観心論』
  • 『国清百録』
  • 『天台八教大意』

伝記資料

  • 「唐天台山國清寺釋灌頂傳」(『続高僧伝』巻19「習禪篇」4)
師:天台智顗天台宗(中国)弟子:智威