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「吉蔵」の版間の差分

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父も出家しており、道諒という僧であった。父について[[真諦]]三蔵のもとに行き、出家して吉蔵と名づけられた。12歳の時に[[三論宗]]の法朗の講義を聴き、翌年に出家した。
父も出家しており、道諒という僧であった。父について[[真諦]]三蔵のもとに行き、出家して吉蔵と名づけられた。12歳の時に[[三論宗]]の法朗の講義を聴き、翌年に出家した。


21歳で具足戒を受け、[[隋]]の[[百越]]征討の際に、[[会稽]]の嘉祥寺に住しており、三論を究めた。嘉祥寺に住したことから、嘉祥大師の名がある。[[開皇]]17年([[597年]])には、[[智|天台智顗]]と交際した。
21歳で具足戒を受け、[[隋]]の[[百越]]征討の際に、[[会稽]]の嘉祥寺に住しており、三論を究めた。嘉祥寺に住したことから、嘉祥大師の名がある。[[開皇]]17年([[597年]])には、[[智|天台智顗]]と交際した。


以後、[[煬帝]]の命により、[[揚州市|揚州]]の慧日道場・[[長安]]の日厳寺で三論や[[法華経|法華]]の布教や講説を行い、煬帝を初め多くの信者を得た。この間に三論教学を大成している。また、戦乱中に博捜した様々な文献を用い、大乗経典の研究を行った。
以後、[[煬帝]]の命により、[[揚州市|揚州]]の慧日道場・[[長安]]の日厳寺で三論や[[法華経|法華]]の布教や講説を行い、煬帝を初め多くの信者を得た。この間に三論教学を大成している。また、戦乱中に博捜した様々な文献を用い、大乗経典の研究を行った。

2020年8月16日 (日) 12:19時点における版

吉蔵
549年623年
諡号 嘉祥大師
宗派 三論宗
寺院 嘉祥寺、慧日道場、日厳寺
法朗
弟子 慧灌
著作三論玄義
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吉蔵(きちぞう、549年 - 623年)は、中国六朝時代末から初期にかけての僧。俗姓は安氏で、先祖は安息国の人である。金陵(江蘇省南京市)の出身。嘉祥大師とも言う。

生涯

父も出家しており、道諒という僧であった。父について真諦三蔵のもとに行き、出家して吉蔵と名づけられた。12歳の時に三論宗の法朗の講義を聴き、翌年に出家した。

21歳で具足戒を受け、百越征討の際に、会稽の嘉祥寺に住しており、三論を究めた。嘉祥寺に住したことから、嘉祥大師の名がある。開皇17年(597年)には、天台智顗と交際した。

以後、煬帝の命により、揚州の慧日道場・長安の日厳寺で三論や法華の布教や講説を行い、煬帝を初め多くの信者を得た。この間に三論教学を大成している。また、戦乱中に博捜した様々な文献を用い、大乗経典の研究を行った。

代になると、実際寺・定水寺・延興寺などに住した。

日本三論宗を伝えた慧灌など、数多くの弟子がいた。

参考書籍(著作注解)

伝記資料