コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「馬延」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ギョウ」→「鄴」が記事名を含まれる記事の改名に伴うリンク修正依頼 (鄴) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
31行目: 31行目:
| 〔不詳〕
| 〔不詳〕
|}
|}
[[袁尚]]配下。[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、[[鄴]]を守備する[[審配]]を救援するため、袁尚に従い[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、馬延が同僚の[[張ギ|張顗]]と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。史書の記述はこれだけである。
[[袁尚]]配下。[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、[[鄴]]を守備する[[審配]]を救援するため、袁尚に従い[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、馬延が同僚の[[張顗]]と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。史書の記述はこれだけである。


== 物語中の馬延 ==
== 物語中の馬延 ==

2020年8月16日 (日) 12:04時点における版

馬 延(ば えん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

姓名 馬延
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 大将
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚曹操
家族・一族 〔不詳〕

袁尚配下。建安9年(204年)、を守備する審配を救援するため、袁尚に従い曹操と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、馬延が同僚の張顗と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。史書の記述はこれだけである。

物語中の馬延

小説『三国志演義』では、この後も曹操配下として登場する。当陽の戦いでは他の袁紹の降将と共に、阿斗を抱える劉備軍の趙雲を包囲するが、突破されている。赤壁の戦いでは、張顗と共に敗走する曹操を護衛するが、追撃してきた甘寧に張顗共々討ち取られている。

参考文献