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「劉子勛」の版間の差分

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ときに前廃帝が多くの大臣を殺害しており、{{仮リンク|何邁|zh|何邁}}は兵変を起こして劉子勛を擁立する計画を立てた。しかしその計画は漏れ、前廃帝が宿衛の兵を自ら率いて何邁を誅殺した。続いて前廃帝は左右侍従の朱景雲を遣わし、毒を送って劉子勛を自害させようとした<ref name="通鑑紀事本末3802"/>。しかし朱景雲は[[柴桑区|湓口]]まで進むとあえてそこに留まり、江州長史の{{仮リンク|鄧エン|label=鄧琬|zh|邓琬}}に知らせた。鄧琬らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。
ときに前廃帝が多くの大臣を殺害しており、{{仮リンク|何邁|zh|何邁}}は兵変を起こして劉子勛を擁立する計画を立てた。しかしその計画は漏れ、前廃帝が宿衛の兵を自ら率いて何邁を誅殺した。続いて前廃帝は左右侍従の朱景雲を遣わし、毒を送って劉子勛を自害させようとした<ref name="通鑑紀事本末3802"/>。しかし朱景雲は[[柴桑区|湓口]]まで進むとあえてそこに留まり、江州長史の{{仮リンク|鄧エン|label=鄧琬|zh|邓琬}}に知らせた。鄧琬らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。


叔父の湘東王劉彧が前廃帝を殺害して[[建康 (都城)|建康]]を掌握する([[明帝 (南朝宋)|明帝]])と、劉子勛に[[車騎将軍]]・{{仮リンク|開府儀同三司|zh|開府儀同三司}}の位を与えた。しかし鄧琬らはその命を拒否し、劉彧の即位に反対する檄を飛ばした。[[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年([[466年]])1月7日、鄧琬らに擁立された劉子勛は[[黄梅県|尋陽]]城で帝を称し、年号を[[義嘉]]とし、百官を置いた。[[豫州]]刺史{{仮リンク|殷エン (南朝宋)|label=殷琰|zh|殷琰}}・[[青州 (山東省)|青州]]刺史[[沈文秀]]・徐州刺史[[薛安都]]・[[冀州]]刺史[[崔道固]]・[[湘州]]行事何慧文・[[広州 (広東省)|広州]]刺史袁曇遠・[[益州]]刺史[[蕭恵開]]・[[梁州]]刺史柳元怙らが呼応して起兵した。3月、劉子勛の朝廷は、左衛将軍の孫沖之らを赭圻に拠らせ、豫州刺史の[[劉胡]]を鵲尾に駐屯させ、安北将軍の[[袁ギ|袁顗]]を遣わして全軍を統帥させた。明帝側の[[張興世]]が銭渓に拠って袁顗らの補給路を遮断した。8月、劉胡は銭渓を攻撃したが大敗し、劉胡が敗走したと聞くと、袁顗もまた南に逃れた。劉子勛と母の陳氏は、諸軍を率いて尋陽に入った[[沈攸之]]に殺害された<ref name="通鑑紀事本末3849">{{Harvnb|通鑑紀事本末|2000|p=3849}}</ref>。遺体は尋陽南郊の[[廬山]]に葬られた。
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== 出典 ==
== 出典 ==

2020年8月16日 (日) 11:38時点における版

劉子勛
皇帝
王朝
在位期間 466年2月7日 - 9月19日
都城 尋陽
姓・諱 劉子勛
孝徳
生年 孝建3年(456年
没年 義嘉元年8月24日
466年9月19日
孝武帝
陳淑媛
陵墓 廬山
年号 義嘉 : 466年2月 - 9月

劉 子勛(りゅう しくん)は、南朝宋皇族

生涯

孝武帝陳淑媛中国語版の間の三男[1]として生まれた。大明4年(460年)1月、晋安王に封じられた。8月、都督南兗州徐州之東海諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史に任じられた。大明7年(463年)1月、都督江州南豫州之晋熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事・前将軍・江州刺史に転じた。大明8年(464年)1月、使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となった。孝武帝が崩じた後の8月、長兄の前廃帝劉子業から再び江州刺史に任じられた。眼病を患っていた劉子勛は孝武帝には愛されなかった。景和元年(465年)、使持節を加えられた。

ときに前廃帝が多くの大臣を殺害しており、何邁中国語版は兵変を起こして劉子勛を擁立する計画を立てた。しかしその計画は漏れ、前廃帝が宿衛の兵を自ら率いて何邁を誅殺した。続いて前廃帝は左右侍従の朱景雲を遣わし、毒を送って劉子勛を自害させようとした[1]。しかし朱景雲は湓口まで進むとあえてそこに留まり、江州長史の鄧琬中国語版に知らせた。鄧琬らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。

叔父の湘東王劉彧が前廃帝を殺害して建康を掌握する(明帝)と、劉子勛に車騎将軍開府儀同三司の位を与えた。しかし鄧琬らはその命を拒否し、劉彧の即位に反対する檄を飛ばした。泰始2年(466年)1月7日、鄧琬らに擁立された劉子勛は尋陽城で帝を称し、年号を義嘉とし、百官を置いた。豫州刺史殷琰中国語版青州刺史沈文秀・徐州刺史薛安都冀州刺史崔道固湘州行事何慧文・広州刺史袁曇遠・益州刺史蕭恵開梁州刺史柳元怙らが呼応して起兵した。3月、劉子勛の朝廷は、左衛将軍の孫沖之らを赭圻に拠らせ、豫州刺史の劉胡を鵲尾に駐屯させ、安北将軍の袁顗を遣わして全軍を統帥させた。明帝側の張興世が銭渓に拠って袁顗らの補給路を遮断した。8月、劉胡は銭渓を攻撃したが大敗し、劉胡が敗走したと聞くと、袁顗もまた南に逃れた。劉子勛と母の陳氏は、諸軍を率いて尋陽に入った沈攸之に殺害された[2]。遺体は尋陽南郊の廬山に葬られた。

出典

参考資料

  • 袁樞 著、柏楊 編(中国語繁体字)『鮮卑羨慕中華: 柏楊版通鑑紀事本末17』遠流出版、2000年。ISBN 978-9573240037 

伝記資料